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パトラッシュが駆ける!

途中の道端 

2017年02月25日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

寺社を巡り、ご朱印を蒐集する。
これが、ブームとなっているらしい。
善男善女が、発心して、神仏の御許にお参りをする。
それは、結構なことだと思っていた。

ところが、どうも様子がおかしい。
ご朱印の捺された色紙が、世上において、売買されているという。
密売ではない。
ネットオークションにおいて、公然とだ。
そんなものを、売る者がいる。
買う者が居る。
どっちもどっちだ。
そのことに、驚いてしまった。

私はかつて、遍路旅をやり、四国霊場八十八ヶ所を巡った。
寺々において、納経し、ご朱印を頂いた。
その納経帳は、今も大事に保存してある。
しかし、心の拠り所に、しているわけではない。
宝物とも、思っていない。
あくまでも、旅の記念品である。

人が来て、遍路の話が出れば、お見せすることもある。
この寺のお坊さんは、字が上手い。
こちらは、少々雑だ。
なんてことを言い、笑い合っている。

延べ四十日をかけ、歩いて四国を一周した。
私は、その経験から、一つだけ、自信を持って、言い切れることがある。
ご朱印に、ご利益はない。
ここを、勘違いしてはいけない。
あるように、見えるだけだ。
況や、お金と引き換えに、得たそれに、何の価値があるものか。

何事も、金で解決。
現代の世相を、物語っていなくもない。
しかし、あまりにも安易だ。
その安易さの先にある、彼の人生の方が、むしろ思いやられる。

 * * *

四国一周の旅は、難儀であった。
随所に「遍路ころがし」と称する、険しい山道があった。
苦労して、山に上る。
頂上に着いて、一件落着ではない。
今度は、下りにかかる。
それを、何度となく、繰り返す。

私達凡人は、上り詰めた、山の高さを、一つの成果として、
喜びたい。
しかし、それを我がものとして、持ち続けることは、出来ない。
先へ進むためには、次の瞬間に、捨てなければならない。
得たように見えて、実は、得ていない。
しかし、失ったように見えて、実は、失ってもいない。
苦心惨憺が、おのれの中に、刻まれているからだ。

炎天下に、果てしなく続く、海辺の道があった。
木陰があると、その涼しさに、生き返るようであった。
しばしの憩いを得た後、再び炎暑の中へと、歩き出して行く。
苦があるから、楽がある。
楽があるから、逆に、苦もある。
と言うことに、気付かされた。

苦楽は、さながら、紙の両面のようであり、どちらか一方だけで、
存在するのではない。
そこに気付いた。
気付かされた。
歩いてみるものだ。
車で回っていたら、きっと見えなかったであろう、
様々なものが見えた。

私はそれらを、旅の途中の道端において、見た。
お寺において……ではない。
道端こそが、私に、様々なことを、教えてくれた。
お寺は、むしろ逆だ。
そこは皮肉にも、俗世に立ち返る場所であった。
本堂の前に立ち、般若心経を唱える。
納経所で、三百円を差し出し、ご朱印をもらう。
一つの儀式に過ぎない。
儀式とは、即ち形であり、
それは、目に見えて存在する、現実そのものだ。
私達は、現実を超えたところにある、何かを求めているはずだ。

ご朱印は、一つの形に過ぎない。
寺社にお参りしたという事実を、形として、残しておきたい。
その自己満足に過ぎないと、私は思っている。

 * * *

以下は昔の話である。
私は山登りが好きであった。
友人の一人が、やはり、登山を趣味としていた。
時間とお金に、恵まれていた彼は、貧乏な私と違い、
しばしば遠くの山へと、出かけていた。
ある時、南アルプスの、北岳に登ったと言って、
みやげを持って来てくれた。
それが何と、石であった。
底が平で、上は半円形の、ちょっと見には、饅頭に見えなくもない。

「日本第二の高峰の、その天辺にあった石です」
どうだ……と言わんばかりに、彼は笑った。
そこに、邪気はない。
自らの喜びを、形を通し、友に分かちたい。
その思いで、リュックに入れて来たと思われる。

礼を言って、受け取ったものの、私はバカバカしくなり、
翌日、その石を捨てた。
と言っても、庭にブン投げただけだが。
私に、石を集める趣味はない。
彼がどんなに、苦労して、運んでくれようとも、私には、ただの石だ。
彼の感激を、私が共有することはない。
出来ない。
それは、そこに到達した者のみにある、感激だからだ。
饅頭なら、喜んで食ってやるのに……
その時に、思ったことだ。

 * * *

ご朱印もまた、石のようなものだ。
寺社にお参りした、その結果として、あるものだ。
お参りをさておき、ご朱印が先に立つことはない
結果として在るべきものが、目的と化している。
況やそれを、他人から譲り受ける。
何と無意味なことが、なされるのであろうか。



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風潮

パトラッシュさん

我太郎さん、
金で買った朱印帳なんか、鰯の頭と同じく、そこに価値は見出せませんね。
こんな風潮は、大変に残念です。

2017/02/27 12:03:35

我太郎

我太郎さん

言い得て妙、すべてにうなずき読み進みました
売る人は買う人がいるからでしょうが、買う人は何を求めて価値を見出すのか
鰯の頭もと言いますれば、ありがたいと思えばありがたい信仰の世界ゆえこれでいいのかな?
何や釈然としませんが

2017/02/26 23:16:01

蒐集の意味

パトラッシュさん

澪つくしさん、
そういう人に限って、その”成果”を自慢をするのです。
時には、見せびらかしたりして。

コレクターは、何処にも居るものです。
そして、なんでも、その対象になるのですね。
それで、心の豊かさが得られるなら、それはそれで、意味があるのでしょうね。

2017/02/25 13:28:32

人生を金で買おうとするようなもの

パトラッシュさん

シシーマニアさん、
そうなのです。
他人の行跡を、買ってまでご利益にあずかろうとする。その心根が、わからないのです。
その需要があるから、売る者も、出て来るのでしょうね。
私の想像では、どちらもお金はあるかもしれませんが、心は貧しいと思われます。
容易に、その心が満たされるとは、思えません。

2017/02/25 13:24:06

心の拠り所

パトラッシュさん

Reiさん、
貴女の場合は、よろしいと思います。
霊場を廻り尽くす、その結果として、ご朱印帳が満たされて行くわけですから。
最後のお寺で言われたこと、けだし名言だと思います。
今後の人生を、どう生きるか……
そこにかかっているのだと思います。

Reiさんなら、驕ることなく、人生を着実に歩んで行かれることでしょう。
ご朱印帳、心の拠り所として、大事に保存して下さい。

2017/02/25 13:16:04

コレクター

澪つくしさん

御朱印の売買の事、私も先日TVで見ましたヨ!

「バチあたりめ〜!」かどうかは、オイトイテ!

以前とあるサークルで神社仏閣を回った時、
ロクスッポご本尊を拝観もせず、御朱印一直線の
女性に行く先々で待たされて・・・

もう何冊たまった・・・と自慢げに。。。(-_-メ;) オイオイ


一人で自由にお出かけになればいいのにネ〜(-"-;)

2017/02/25 12:25:31

御朱印の売買

シシーマニアさん

売ろうと言う人の考えは、想像が付きますが、買う人は一体、どういう気持ちなのでしょうか・・。

更に、売ろうと考えているのでしょうか。

「私はそれらを、旅の途中の道端において、見た。
お寺において……ではない。
道端こそが、私に、様々なことを、教えてくれた。」


私にとっては、観光の名所が、師匠の仰るお寺に当たります。
お寺に対して、ちょっと不謹慎ですけれど・・。

2017/02/25 11:22:43

ご朱印

Reiさん

私も坂東三十三観音巡りをして、いつしか、ご朱印帳を埋めていくことに、喜びを感じているようになっていました。
でも、最後のお寺で、「これで終わりではなく、これが始まりなのですよ」と言われて、ハッとしました。
ご朱印をもらうことが目的なのではなく、自分で苦労して足を運ぶことが大事なのですね。
時間があれば、もう一度訪ねたい所もたくさんあります。

2017/02/25 10:32:58

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