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私の場合。 

2016年05月14日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

この記事は現在から過去遡って日付順に更新している中で、ネタのない日にぶち当たったので書いてますけど、この日の後に起こった大惨事、意識不明の地下アイドルさんの事件、恐ろしいですね典型的なサイコパスストーカーの男が起こした最悪の障害事件だと思います。これ以上最悪な結果がアイドルの方の身の上に起こらない事を願って止みません。で。そう言えば、なんですけど…。私、自他共に認めるヒステリー女ですカッとなって物を壊すのは日常茶飯事の危険なオンナ。物を壊すと、スッとします。ヤバイですよね以前テレビで、どっかの国のサービスで、ストレス解消に各ご家庭から回収した古い食器を集めて、トラックでそれらを好き放題に破壊出来る場を提供するといった様な商売がある的な事を見て、私もそんなサービスがあれば喜んで参加したいのに。。。と思う程、ムカムカしてストレスが溜まると破壊衝動が高まる系の人間なのです。小さな頃は今に輪をかけて何かにつけて愚鈍だったけど、仮に自分が他人から叩かれても、その時には思考停止をしてしまい、されるがまま。でも、その返しで咄嗟に人を叩き返すなんて事は何となく気が引けてしまって出来なかった時期もあります。人を傷付ける事は良くないし、何か自分がそれをするのが怖いとゆ〜考えががズット根底にあって、どうしても無理でした。人を対象に攻撃衝動を向けるという行為が苦手で、怒りで手を振り上げたとしても叩けない、物をぶつけてやりたくても、ぶつけられない。完全に制止制御が利いていたので、問題はなかったと思います。…が。物には意思がない・痛がらないと思える点で、私も安心して叩き壊しては破壊衝動を満たすとゆ〜、ある意味昏く闇を抱えた性格の幼少期を過ごしています。人は叩かなかったけど、物を壁に投げつけて壊したり、地団駄踏んで悔しがるとか、怒りの心を持て余すと暴走する性格が私のデフォルトなのだと自己分析します。(え…コレって、軽サイコパス?)しかし、世の中には何で怒らないの?(怒らずに済むの)といった、非常に怒りの沸点の低い、ヒステリックな私からしたら穏やかでさながら仏にすは見える様な人が存在するので、そういった人が心底羨ましく思えます。尋ねてみると、怒れと言われても困るんだそう。仏だ。。。しかし、そもそも私側の人間でも、怒って暴れるって一見スッキリと解消された様でいてその実、全く何も怒りが消えている事なんてしてないんですよね。だから物を壊してハァ…と一息吐いた後には、また思い出してイライラしたりと不毛な己の心との戦いみたいな感じになっていて矢鱈と気力が消耗するのです。こんな自分が生きて42年間も付き合っておりますが、モゥいい加減しんどいです。考えてみるとメラメラと燃える様に怒るって事は結局、自分にはそれだけの備蓄エネルギーがあるんですよね無理矢理、エネルギーが怒りの方向へ充填されて炎上。気力の消耗が甚だしい。早くその備蓄庫が枯渇しちゃえばイイのにって思います。理不尽にイライラするって、本当に疲れるのに。でも、何か気に入らない事があると怒りの気持ちが堰を切った様に溢れ出て止まらないんですね。そしてもう1人の自分が、突発的に爆発する怒りの感情の裏側でとても疲れているのを感じます。。。もう、イイ加減落ち着きたい。仏になりたい。自分の中での感情一つに振り回されて、まるで市中引き回しの刑をエンドレスで断行してるかの様。一つの性格を変えるって、大会社が全財産を投資して行う社運を賭けた一大プロジェクト張りに難しい試みの様にも思えます。性格だから、なっかなか変わらないんですよね…世の中には星の数程の自己啓発本とかとあるけどさ、果たしてその中で完全にアンガーコントロールを成功させた人がどれだけ居るの?って話です。きっと自覚ある対象者の皆さん、苦しんでいらっしゃいますよね。無自覚な人は、地下アイドルさんを襲撃した男の様に暴走して相手を破壊し尽くして1時的にスッキリした錯覚に陥るのでしょう。問題は自分の心の中にあるのに。で、この怒り衝動。私の場合、昔は単に物を壊すだけに留まっていたモノが、自らが知らぬ内に歳を重ねるに連れて徐々にエスカレートしていった様な気がします。キッカケは日々積み重なったストレスが原因だったのかな?と思われるのですが。段々と人様に対して手を出すのに躊躇しなくなってきていて、自制心が緩くなってしまった様な。。。昔の、何があっても手が出せなかった自分は何処に行ってしまったの?と嘆く気持ちです。カミングアウト致しますと、ブラックな職場で働いて不満が溜まりに溜まりきっていた若い頃、JR大阪駅の改札内に入った直後に遭遇した見知らぬ無礼なオバハンを発作的にコノヤロ〜とばかりに、ドン!と、突き飛ばした事があります。自分は頭が沸いていたのでその後、その言い返してきたオバハンとは喧嘩になって罵り合いを繰り広げましたが、大変、醜いバトルですね。そして私自身、まさか手が出るとは。。。何で我慢出来なかったんだろ。駅の雑踏でムカつく人間なんて珍しくないものにイチイチ逆上したりして手を出して、本当、馬鹿みたい。自分は怒りに支配される愚かな人間に成り下がってしまったのか…?とゆ〜漠然とした不安に苛まれ始めたのはこの頃でした。なので今も、人を攻撃対象にしてしまったこの時の事が心に残っています。他にも様々な経験を経て、人付き合いに挫折して、もっと私は自律をして行かなきゃ、と思って、なるべく湧き上がる変人的個性を封印しながら試行錯誤して生きてきました。人とは違う自分だから苦しかったけど、なるべく多くの人から普通に見える様に、社会に迎合する振る舞いを取り繕う術を。微妙に失敗していた気もしますが、それなりに世間一般的な良識が、知識として自分の中に入っていったと思います。だから、心に余裕がある時は1時的に取り繕えるんです。でも、余裕が無くなると途端に化けの皮が剥がれるまさに私は子育て期が、その化けの皮が剥がれる瞬間でした。布石的には、関東圏の片田舎に単身嫁いで、義母との同居。義母がシャンとしていて、シャキシャキする様な性格であれば、 私とは真反対なので逆に上手く行けたのかも知れませんが、性格は穏やかで気にならないとはいえ、歳のせいには出来ない本来な性格のルーズさが日々の行動で滲み出るのと、私が嫌がる様な事をピンポイントで面倒がってサボる系のだらしない行動がストレスに。正直カナリ辟易していた所で、待望の妊娠でした。風が変わるとイイけど。と思えて、妊娠期は気分も変わってお腹に子供が居る事で、マイペース無く生活を送る事が出来、マタニティブルーに陥ることも無くとても快適なマタニティライフでした。悪阻入院とかあったけど、それもまた、体がシンドかっただけで、入院生活は楽しかったし良き思い出です。あの時はお友達から高タンパク・高ミネラルの食事を心掛けてって教えて貰い、妊娠食とか、作るのも食べるのも楽しかったな〜過去最高という程、メッチャ太りましたけどねでも、それもまだ産科的には許容範囲の増加でした。妊娠のスタート地点から増加を抑えただけだっだから、元々太っていた分が凄かったのでアレなんですけど問題は、出産後でしたね〜私の場合。。。産後の入院生活では、病院で様々なスケジュールが組まれています。帝王切開で産んだから、産後の傷が痛かったりして思うままに動けなかったりして、それに加えて襲ってきた産後鬱…産まれた娘は、かわいくて仕方なかったのでお世話はしたいけど、スケジュールに授乳にと大忙しの入院生活の中で、毎日義母がお見舞いに来るんですよ会いたくなかったし、辛かった。来ないで欲しかったけど、良かれと思って来るので相手をしなくてはならず、物凄く苦痛でした。そして退院。体調は戻ったけど、それ以来の鬱傾向が残っていて、何か気が狂いそうでした。娘が赤ちゃんの時は私的にはまだ、良かったんです。ただ、娘的にはどうだったかな…?と思った時に、杜撰な育児を繰り返していた自分の行動を振り返ると、やり直したくなります。あんまり泣かずミルクもよく飲んで、全く手の掛からなかった娘。当時半年後程レンタルしたベビーベッドにほぼ寝かせたきりでしたね大人しくて、なら寝かせておいても問題ないのでは?、と放置してました。そこから眺めたりホッペをつついたりして過ごす。抱っこもするけど、主に、授乳の時位…?母乳による授乳を試みるも、何故か上手くいかなくてあんまり出なくなりました。粉ミルクの回数が多くなり、夜寝る時にオッパイを加えさせて飲んでる?みたいな感じです。搾乳機械や体重計をレンタルして測ったりもしましたが、出が悪いかも知れない母乳よりもミルクの方が赤ちゃんの成長を考えると食事として相応しい気がして、私の胆嚢摘出手術をキッカケに完全ミルクに移行しました。娘をスリングに入れて、中野までカイロプラクティックに通ったなぁ。そこでも道中や託児所で大人しくて、とても育てやすかった。赤ちゃんの時は、やり方は著しくマズかった私の悲惨な育児でも、娘はスクスク育ってくれました。この時、衛生面で無菌状態から始まる赤ちゃんに対して汚過ぎると思える義母が、とてもとてもとても、嫌いでした。同居ってホンマに嫌やなと心底思える時期。今もですけど、優しさのない私。基本的に介護が嫌いだから同居も向いてないし、育児も子育てに必要な母性愛が無くて、向いてないダメ人間だった自分を憎みます。皮一枚で取り繕っていた私の心の化けの皮。育児と同居で剥がれて破れて消えてしまった。。。となると、現れるのは自分の中の、鬼ばかり。遠慮がブレーキとなる他人の義母に言えない不満は全て、血を分けた身内である娘に行くんです。。。里帰り出産をすれば良かった。こんな事なら。そして当分、帰らなきゃ良かったのかも。成長して来るにつれ、自我を持って人間らしくなる娘は、お腹の中にいた頃やお世話がないと何も出来ない赤ちゃん期の頃とは当然の事ながら、違ってくる。私は自分の湧き上がる心と子供と不満しかもたらさない義母との生活を完全に持て余して迷走していました。。。救いはただ、主人の存在。主人の全面的なケアがなければ三面記事に載る事になっていたのではないかな。大袈裟ではなく。だから、明らかに内縁関係の夫による類の虐待の例を除けば、世の中の苦しんだ末に起こる悲劇の虐待の仲間入りをしていたかも知れないと、思います。子供が欲しくて授かったのに、何で私は毒親にしかなれなかったのかと、授かる資格の無かった人間なのだと。母に恵まれなかった、ひたすら、不憫な娘です。私はある時期から、様々な暴力に対する被害者の方の事が気になるようになっていました。私は明らかに加害者の立場だと思うのに、それが何故かは分かりません。今も、様々な漫画を電子書籍で見付けては読み漁っています。当時ブログ記事の中でも、ご自身のサバイブ体験談を少し書いていらした方が居て、その一つの記事の一文で、主に母が、でも父も普段からそれを黙認しており、結局と所、その父も母に紛れて一緒になって自分を殴っていたという内容の事が書かれていた事を覚えています。父も。。。?自分もエゲツない事を娘にはしていたので、非難出来る立場ではないのですが、それでも世の中の事件として上がる虐待行為には、心を痛めています。だって、私は、快楽で子供を叩く訳じゃない。勇気があれば、出て行きたかったし、何なら死にたかった。罪悪感があった。常に。私はコレでも、なるべく激昂している時の八つ当たり行為を、密室では行わない様にしていました。必ず同居の家族がいる中で、エスカレートしない様に、誰かが止めてくれる様にって、どこかで思っていたと思います。ほぼ破綻した中での、なけなしの私の中の自制心でした。私の中では人の目ってとても大事だなって思っていて、今から思えば物理的には何の役にも立たなかった義母の目でも、あるのと無いのでは私の中では大いにブレーキとして作用していたし、主人に至っては、当然の事ながら止めてくれたからです。普段生活している中では淡白な性格だと思われていた概ね静かな主人ですが、生まれてきた娘に対する愛情は一般の母親以上ではないかと思える程に持っていて、子供の父親として素晴らしい人だと尊敬します。もうきっと私なんか要らない。この父なら、父子家庭になっても、娘は幸せに育つでしょう。そう思います。私は出てくべきなのかな〜って折に触れて、考えます。辛いよね?シンドイよね?こんな母が実母では。私も辛くて。最近は落ち着いて、娘がかわいく思えますが、当時は心がグシャグシャで、私にとって、子供がかわいいと思えなくなる時期もありました。兎にも角にも、一貫して娘の救いとなり私の心と子育ての支えやストッパーにもなった存在は、娘のパパであり、私の主人でもあったのです。両親のどちらかが…でも、子供にはキツイ事この上ないと思うのに、そのどちらからもだなんて、子供の救いは一体何処にあるのかと、私が言える訳もないのですが、それでも子供の地獄を想像してしまいます。もしも、主人が一緒になって娘を叩いたりする様なパートナーであったなら、私の中のストッパーがなくなって、行き着く所まで行ってしまったのでしょうか?本当は、止めて欲しいのに。その場では、そうは言えないかも知れないけど、冷静になった時に感謝する、絶対。躾にしろ何にしろ、本当は子育てに暴力なんて要らないと思うんです。感情の暴走で、自分の狂った基準を脇からそれはおかしいって、何が何でも抑止してくれる、怒りの境地から力強く引き戻してくれる人が居てくれるから、きっとおかしな人だってマトモで居られるんです。一緒になって協力して貰っても、何もありがたくなんてない。内縁関係の歪な家庭の中で起こる虐待来の中で、自分の子供が内縁の夫に殴られてるけど怖くて止められなかったといった証言がありますが、それとは違いますが先に書いた方の場合、自分が一緒になって殴らないと妻から自分が殴られるからやってたみたいな事だったという内容の事があって、流石に驚きました。自分に殴られるのが嫌な気持ちがあるなら、子供だって殴られるのは嫌な筈。痛い筈。やめて欲しい筈。男である所の自分の方が力がある筈のに、妻を全力で止められないのは何故なのか?主たるものとして、情けなくもある人間性。その父のソコには、暴力行為で弱いものを屈服させる快楽は一ミリも無かったか?様々な事情があって私なんかよりももっともっと、深い心の闇を抱えていたであろう、その妻の方の心も、何かに突き動かされて我が子を激しく殴りながら、一緒に暴行に加わる様な夫と居ても、一つも心は救われなかった事だろうな…と、思えた。見知らぬ人の事だけど。恐らく1人では、心の弱い人は真っ当にすら生きられない。どれ程に物理的に恵まれていたとしても、心の弱さは財力には比例しない。誰かの支えや導きがあってこそ、初めて一人歩きしたいと思える強さを得るのかなって思う。闇が自らの心の問題とは言っても、自分1人の中でグルグル考え抜くよりも、人との縁の中で巡り合う、人の事を心から思える人間のサポートがあるならば、人は何とか強くなれるのではないかな?と。自分を振り返って考えるのは、鬼になる時の私は、私自身の事しか考えていないエゴに支配されている。いくら何と正当化しようとも、まごうかたなき、自分だけの為。 私の意見では、確かに子育てに暴力の介入は、一切要らないと断言したい。叩かない育児ってどうなの?と唱えている人も見かけるし、そうなのかな?と叩いてしまう自分にとってのその意見は楽なので、つい流されて賛同しそうになった時もあったけど、よく考えれば、叩かない育児と、一度も叱りとばさない育児は違うよね?ゆとり世代をターゲットにしたトーク番組で、ゆとりの新入社員が上司から叱られて出社1日で辞めたなんて話題をやる。親に殴られた事がないからだ、と言う。え、殴ると叱るは違うよね?叱らない育児はダメだと思うけど、叩かなくても、殴らなくても、叱る事は出来る気がするんですけど。単に子供を叱る時に一緒に叩けば、その恐怖で反射的に大人しくなるだけだよね?そして、叩いた人は何となくスッとして、その問題をひとつ、躾けられた気持ちになるのではないのかな。私なんかも、そのタイプでダダ漏れる感情が止められず反射的に叩く。叱りながら。この場合、叱る事が口実になっている様にも思えて、何となく本末転倒な気持ちになる。叩かなきゃ分からない子なんて理由は、単なる叩きたい人の詭弁だ。人が叩いて躾けて、何か得なる事なんてあるのだろうか? 例えば生き物の本能としての場合の子育てを考えた時に、子供を殴って育てる動物を見知った事があるかを考えると、無い様な気がする。叩くのって、複雑な感情と知性が発達した進化系の人間特有の習性なのでは?とか思ってしまう。身近な所で猫は苛立つと人を引っ掻くけど、言う事を聞かないからといって、躾けと称して子猫を叩いているのかと思うと謎である。ヤバイ。私は、猫にも劣る。。。(猫はかわいい生き物です)ある時、何度口うるさく言っても言っても、言う通りに行動しない娘に対して苛立ちを募らせたある瞬間に、カッとなって、主人の目の前で容赦なく娘の頭を力一杯叩いた私。…娘の体に他にも叩ける場所は多々あれど、娘の頭は何故か私にとって非常に叩きやすい箇所。故に頭を叩かれる率が矢鱈と多い、気の毒な娘。そんな時、そんなに強く叩くんじゃね〜よと、私は怒られます。もしどう見ても娘が悪かったとしても、彼は私と一緒になって叩いたりはしないので、凄惨な暴行事件にはなりませんし、単に怒りが収まらない私が主人から怒鳴られた為に更に不機嫌になるだけの事です。夫婦の間柄で何となく険悪なムードになり、最近は娘が、子供が兄弟にする様な感じでもっとママを怒って凹ましてやってオーラを醸し出して来るので、姉気分になってしまって、ムカつきます。くっそ、何か妹と暮らしてた頃を思い出す。。。そんな訳で主人の前だと、子供は叩いちゃダメなのかな〜と思いつつも、やはりカッとなると叩きたい。我慢すると、ムズムズする。コイツぁ、どんだけ叩いてすら聞きゃしないんだから、叩かなきゃ一生、分からない。あ〜ムカつくわぁ、ホンマにコイツ、叩きたいと葛藤するのも自制心の一歩です…よね?そしてまたある時、娘に対する怒りで反射的に私が手を振り上げた時、主人は言います。ニーナを叩くなら俺を叩けっと…躍り出てくる私、ココで脱力。妻に殴られるのが嫌だからと、一緒になってボコボコに我が子を殴る父親が居たらしいのに、まさか自らの身を捧げて妻に殴られに来る父親が居るなんて事は、あまりに盲点過ぎて、先程とは真逆の意味で驚きました。。。ホンマにアンタぁ、頼りになるよ日々、様々な下らない事でキレたり、子育てにも迷走してる私なんかを見捨てずに面倒見て下さるのは恐らくこの世で、主人だけなんです。日々成長して色々分かってきてる娘の気持ちのフォローも、私がソコはキチンと愛情注がなきゃダメでしょ?ていうポイントに、ここぞとばかり、バチッとピントの合ったタイミングで入れてくれて、本当に、心から感謝しています。出来るなら、彼にはなるべく健康で長生きして欲しい。この世の為にもなる人だと、私は密かに思っている。そして絶対、私が先に死ぬって決めてます。もしも1人、この世に遺されたりなんかしたら私みたいなバカは心底どうして良いか分からなくて、確実に路頭に迷いそう…願わくば共に老衰で死ねたら最高なんですが、どうだろう?主人と出逢えて良かったと、思います。しかし、私からは何一つ、もたらしてないなぁ…ホント、ゴミ。社会の膿。こんな私には勿体無い、心の支えが存在する事でいかされてるんだと感謝するけど、一方で生かされている事に物凄い罪悪感もあります。。。生きてるだけで、どんだけ私が周りに迷惑を掛けるのかも考えるとホント怖くて。何故主人は私の存在が許してくれてるんだろうか私は許せないけどな、自分。ゴメンねって謝りたいです、取り敢えず。私の場合。

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