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パトラッシュが駆ける!

風が吹いてた 

2014年05月02日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

お参りを終え、お寺を出ようとしたら、山門の外に立つ、
老婆の姿が見えた。
境内へ向かい、こうべを垂れ、合掌し、身じろぎせずにいる。
私達は、図らずも、彼女の祈りに、向き合う形になった。

私は、人の祈っている姿を、見るのが好きだ。
そこが、古いお寺や教会なら、なおさらに良い。
美しいと思ってしまうことがある。

私がもし画家だったら、古寺の風景の中には、必ずや、
人を立たせるであろう。
それが老婆であってもいい。
むしろ、味のある絵に、なるのではあるまいか。

「私は、足が悪いので、毎朝ここから、観音堂へ、
お参りさせて頂くんです」
「ご熱心なことで」
「今日は、天気がよくて」
「本当に、いい陽気ですねー」
二言三言交わし、別れた。

私は、東京杉並から来ました。昨夜は当地に泊まり、
朝の散歩で、こちらに来ました。
あ、こちらの皆さんは、ある会のお仲間です。
このお寺には、いささかの、ご縁がありましてね。
私の若い友人が、ここで得度をしました。
ええ、この寺に、縁(ゆかり)のある者です。
彼はまだ、大学生で、東京に住んでいますが、行く行くは、
こちらの住職を、継ぐことになるでしょう。

なんてことを、語ってみたいけれど、見ず知らずの人に対し、
それは、喋り過ぎ、さらには、自慢のし過ぎというものだ。
私は、連れの皆さんにだって、そこまでの説明は、していない。

五日市まで来たからには、是非、このお寺に寄りたいとは言った。
そうしたら、あーやさんが、私が案内しますと言い出した。
秀さんも、茶子さんも、二つ返事で、付き合うと言ってくれた。
持つべきは、友達である。
「行ったぞー。それも四人でな」
A君に、今度会ったら、恩に着せてやるつもりだ。

山門に続く、緩い坂を下ると、踏切がある。
五日市線であり、単線である。
寺の歴史は、鎌倉時代にまで遡る。
その由緒ある寺の鼻先を、新参者の鉄道が、遠慮もあらばこそ、
横切ったことになる。

長い、急な石段があり、桜の木の枝が、両側からせり出している。
花の盛りには、さぞ見事な、ピンクのトンネルを作ったと思われる。
いや、葉桜の今だって、見える限りの緑であり、これもまた、悪くない。

石段を下りると、にわかに視界が開け、そこが秋川の畔だ。
流れは穏やかで、川底の石や藻が透けて見える。
水が岩に当たり、その下流に、白い泡沫を作る。
無数の泡沫を浮かべる、その川面に、朝の日が輝いている。

「この道を歩くのは、実は、久しぶりなの」
あーやさんが言った。
「以前は、ご主人と一緒に?」
「はい」
それ以上は聞くまい。
何年か前に、亡くなられている。

人家は疎らであり、車は通らない。
樹木が多い。
草叢も多い。
至るところに、花が咲いている。
その花の名を、あーやさんが、教えてくれる。

彼女は、植物博士だ。
木でも花でも、何でも知っている。
私は、何も知らない。
ぼんくら頭であり、教えてくれる、その端から、忘れて行く。

山紫水明という言葉がある。
その言葉通りの、プロムナードだ。
ああそうか・・・
私は、やっと気付いた。
最愛の人と、一緒に歩いた道を、一人で歩く。
それは、辛かろう。
静かで、美しい道だけに、余計に辛かろう。
それで、あーやさん、この道を、避けていたのではあるまいか。

 * * *

写真に撮られた、自分の顔を、気に入ったためしがない。
「まあ、仕方ないか・・・」と諦めるのが、良い方で、
多くは「やだなあ」となる。
これしかし、素材の問題なのだ。
冷厳な機器により「真を写された」のだから、弁解も何も出来ない。
五十を過ぎたら、男は自分の顔に、責任を持てと言われる。
その五十を、とっくに過ぎているのに、私は依然、責任が持てないでいる。

ごくたまに「おや・・・」がある。
光線や背景などの影響もあろう、意外に整った顔に、
写っていることがある。
自分ながら、まんざらでもない。
遺影に使えそうだなと、思ったりもする。

D寺の門前で、撮ってもらった写真が、それだ。
日の光を浴び、顔の皴もシミも、きれいに消えている。
少し垂れた目が、私にしては、品の良い笑顔を作り出している。
これなら人様に見せて、責任が持てそうだ。

その稀なる写真が、どうして撮られたのか・・・
偶然であったと、こう思うよりない。
もしかしたら、この地が撮らせてくれた・・・
と思ったりもする。
この地に吹く「風」がである。

 * * *

「彼と生前、毎日のように散歩した道を、先日初めて歩いた。
遠来の友人達と。
今まで中々できなかった事だ。ここまで来るのに約4年・・・」

あーやさんが、そのブログにおいて、珍しく真情を吐露している。
亡き人を偲んで、そこに、切々たるものがある。

普段は、とても明るい人なのだ。
気丈でもある。
ご亭主に死なれたことを、愚痴にこぼしたことがない。
しかしきっと、その心の中には、重いものがあったのだろう。
悔恨や哀切が、何かの時に、きりきりと、その胸を疼かせたのでは、あるまいか。

怪我の功名ということがある。
もしかして、彼女が吹っ切れる、そのきっかけになったとしたら、
私がたまたま、D寺への参詣を言い出して、よかったことになる。
言って見るものだ。
やって見るものだ。

それにしても、あの日の風の、何と爽やかだったことだろう。
この世には、人智を超えた、何かがある。
何かの力が、あの日、あの寺の一帯に、妙なる風を吹かせた・・・
と思えてならない。



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いざとなると・・・

パトラッシュさん

Rockさん、
責任なんて、放り出して、開き直った方が、いいのかもしれません。
そう思いつつ、いざとなると、構えてしまうのです。

2014/05/03 20:49:40

私も 責任持てません (-_-)

Rockさん

顔は良いが 顔に責任は持てない
これだけ歳を重ねたのに 顔に責任という自信がない
なぜだろう あはは う〜ん

2014/05/03 15:16:09

運が・・・

パトラッシュさん

秋桜さん、
何時も、拙文をお読み頂きまして、ありがとうございます。
たまたま写真に撮られた、穏やかな顔の、自分に出会いました。
それを見ているうちに、これを文に書こうと思いました。
書いて見たら、意外にすんなりと、まとまりました。
全てが偶然のような気がします。
運がよかったです。

2014/05/02 14:55:55

見事な情景描写ですね。

秋桜さん

新緑の風香る心地よさが、伝わって来るようです。
キラキラと水面を彩る光も想像できます。


そして読ませていただいているこちらも
同じように参拝した気持ちになり
厳かに一瞬のドラマを感じました。

生きているとそれぞれに言わずもながの
心の襞を持っていますよね。
多くを語らずして相手の意に沿う・・・
素敵な日常の一遍ですね。

充たされた思いが表情に出ていたのでしょう。

2014/05/02 11:51:49

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