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益田 染羽天石勝神社(そめばあめのいわかつじんじゃ) 

2013年07月23日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 
 
染羽天石勝神社は、社殿の東側、弁天池の背後にある注連岩を石神とした自然崇拝を起源とし、神亀2年(725)に天石勝命を祭神として創建されました。

注連岩




『延喜式』に美濃郡五座のひとつとしてその名がみえ、後に滝蔵権現と呼ばれるようになりました。
 
承平元年(931)に社殿西側の高台に別当寺の勝達寺を建立し中世には益田氏の庇護を受けて発展しました
 
明治の廃仏毀釈に伴い勝達寺は廃寺となり、神社も名を染羽天石勝神社と改めました。
 
なお、勝達寺の本尊であった不動明王坐像は鎌倉の極楽寺に現存し、国の重要文化財に指定されています。

   大きい神楽殿?



   神門方から

 

本殿は、天正9年(1581)に火災で焼失しましたが、
益田藤兼・元祥親子により再建されました。       
その後、江戸時代に修理され、昭和12年に解体修理、昭和39年及び平成10年・11年に屋根の葺き替え工事が行われています。                           神門 潜ることはできません。     

本殿 


 
本殿は三間社流造で、三間×三間の身舎の前に奥行一間の吹放し板張りの庇床を設け、両側のみに高欄付きの縁をもちます。このような構造は、重要文化財指定の建造物の中では唯一のものです。
本殿の特異な平面構成と装飾彫刻の蟇股や手挟に見られる桃山時代の特色から、昭和4年に国宝となり、
戦後、文化財保護法の制定に伴い、改めて重要文化財に指定されました。         益田市教育委員会
  このアングルしか写せません。


 

                      境内社

     七尾城跡

 
         美濃地屋敷
国道191号沿いの美濃地屋敷。
江戸時代の1740年代に建設されたといい、
安政二年(1855)に改築された母屋と米倉は当時のまま残っています。

 屋敷に暮らした美濃地家は、たたらをなりわいとして栄え、江戸時代後期には周辺の村々を管理する大庄屋を命じられる家柄だったと云われます。

 母屋には代官などを接待するための座敷もあり、
大庄屋を務めていた風格を感じさせます。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
    土間の梁がすごいです。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
資料館の神楽



まだ晴れてますがこの先の峠で豪雨となりました。

 

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