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米山城 

2013年05月28日 外部ブログ記事
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                 米山城
小さな城ですが急峻な要害になっています。
歴史的にも価値のあるところです。


  東西に細長い小さな丘陵を利用して築かれた天野氏 の居城です。 比高20Mしかありません

縄張り図
本丸は40m*20m  二の丸は長さ65m幅8〜20m  



二の丸の先端部下☆から登る



    二の丸 先端


本丸

 

 
分からないでしょうが・・竪堀



天野氏
天野氏は藤原姓で治承四年(1180)に源頼朝が挙兵した時に三代・遠景が従い戦功を上げ、四代・遠顕が
 志芳荘東村の地頭職を得ました。
五代・ 顕義が米山城を築きました。
 
八代・興次の時代には志芳荘一円の地頭職となり
大内義興に従っていました。
 
九代・興定が家督を相続後の大永三年(1523)に
出雲の尼子経久が大内氏の安芸の拠点、鏡山城を攻撃、落城させました。
興定は周辺の諸氏と共に尼子に寝返りました。
 
翌、大永四年に大内義興は勢力を回復すべく安芸国に
攻撃してきました。
 
大内配下の陶興房が広島湾から上陸し西条に入り
米山城は取り囲まれてしまいました。
 
小さな米山城は瞬く間に落城寸前になりますが、
毛利元就が和議を勧めてきて、興定はこれを受け入れ
米山城を大内側に明け渡しました。
 
興定は大内方として戦功を立て、享栄元年(1528)に
米山城は興定に返還されました。
のちに生城山城を築き本拠としますが米山城も引き続き使用されました。
 
天文九年の尼子晴久の郡山城攻撃では毛利方として
郡山城に入り戦い、翌年の安芸武田氏の銀山城攻撃
にも参加しています。興定は天文九年に六六歳で死去
しました。
 
嫡子・隆綱が天野家を相続しました。
弘治元年(1555)に隆綱が病死し弟の元定が相続
 
永禄十二年(1569)に元定が病死すると相続争いが起こり、毛利元就の7男元政が天野氏を次ぐことになりました。 文禄年間に天野元政は毛利姓に復姓しました。
 
関ヶ原で敗れ防長に移封となり三丘、次いで右田を領し、右田毛利家として続きました。
 

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