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ZRX1200S城

生城山(おおぎやま)城跡 

2013年05月30日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

生城山(おおぎやま)城跡生城山城は、鎌倉時代末期に伊豆国天野郷(静岡県)から地頭として志和に来住した天野顕義から九代目の興定のとき、標高485mの生城山山頂に本格的に築いた城であると伝えられています。                                   天野氏は、初め山口の大内氏に従っていましたが、興定のとき出雲の尼子氏に属しました。このため大永5(1525)年その当時志和東の米山城に拠っていた興定は大内氏に攻撃されたで、 和議を結んで再び大内氏に従いました。               
その後は、生城山城は当初の小規模な城から、戦国期の城にふさわしく山頂の本丸を中心に二の丸、三の丸、見張りの壇、井戸の壇、お馬が壇、侍屋敷などが整えられました。      
なお、本丸にある巨石の柱穴は櫓跡で、居館は東麓、現在の光源寺付近にあったと伝えられています。            
 
このように、生城山城は、天野元政(毛利元就七男)が     
慶長6(1601)年に周防国熊毛郡三丘(山口県)に移るまで   
天野氏の居館でした。                         

城の東の光源寺から登城



光源寺

           光源寺横から登る                                                          
11時21分           
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ほとんど同じ感じの登り

     最後の急な坂

 
12時11分
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
展望出来るまで約一時間歩きました。
六郭端より東の展望  12時18分

3.4郭か?城跡らしさは無い

頂上 1郭 比高260m 12時29分 

西方の展望


 

山頂からの360°展望

 
1郭西下の見張りの壇 巨石

巨石上の二つの柱穴 直径20cm*深さ20cm
約3mの間隔


 
 
 
 
 
 
 

 
 
さらに西へ降りる
←の岩が・・

亀に見えてきます

亀岩

もう一つの天野家
 
生城山天野氏とは別に天野政貞から始まる
金明山天野氏がありました。                毛利元政を迎え右田毛利家となった生城山天野氏と
比べ元信の代で終わってしまったようです。          
はじめ大内氏に従属したが、天文二十年(1551)に大内義隆が陶隆房の謀反によって殺害されると、毛利元就に従属しました。                        政貞から数えて8代目の隆重の妻は毛利の重臣・
福原貞俊の妹だったため、元就の信頼も厚く、厳島の戦いや防長の計略など多くの戦で活躍しました。
尼子氏が滅ぶと、月山富田城の城代を任され尼子氏残党2000人の攻撃を降伏する旨の書状を送り軍を月山富田城に誘引して奇襲わずか300人で撃退しました。
 
子の元明は吉川元春に従たがい尼子との戦いで活躍し天正六年(1578)の上月城の戦いにも参戦。この戦いで降伏した山中幸盛(鹿助)の身柄を安芸へ護送するように命じられ、護送中に家人の河村新左衛門と福間彦右衛門に命じて幸盛を殺害しました。これは吉川元春もしくは輝元の指示であったとされます。
毛利氏の防長移封に従って萩に移り住んだが、間もなく死去したとされます。 
 
家督は弟の元信が継ぎますが、輝元の萩城築城の際
益田元祥の家臣が工事用の石材を盗んだとして争い、萩城の工事に大幅な遅延をきたすこととなり
慶長10年(1605年)に萩城築城の遅れ(益田元祥との権力争いの側面もある)を口実に、元信は岳父の熊谷元直や嫡男の与吉などの幼子とともに処刑されました。輝元からキリスト教の棄教を命令に応じなかったためともいわれます。

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