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岩屋城址 

2012年06月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

岩屋城址
戦国時代によく見られる小さな城ですが
高橋紹運が島津軍5万を相手に763名で立てこもり全員討ち死、自害しました。(戦死者数は600名程から全員討ち死にまで諸説あります)

島津軍はこの城を落とすのに十六日を費やし
死者三千七百余人(治乱記による)と負傷者千五百人の損害を出してしまいます。 島津全軍の約一割に当たります。

岩屋城を落とした島津軍は立花城を囲みましたが、立花山城攻略に時間を費やしている内に、秀吉軍先峰が九州に上陸。
島津軍は薩摩本国への撤退を余儀なくされます。

紹運の命を引き換えにした抵抗は、島津軍の九州制覇を阻止しました
その後の島津軍は秀吉軍二十五万の前に膝を屈するしかありませんでした。

想像図







                        縄張り図

                       
 岩屋城址、看板裏パンフレットより                                      こんな良い資料を用意して頂いて感謝感激                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         
 岩屋城址は本丸跡が残るのみです
道路に面した本丸への入り口

     本丸跡看板


史跡とロマンのまち 太宰府  看板
この看板の裏にパンフレットがあります。



階段を上がる。













              一寸、城跡風なところ。堀切

また階段













    ゆっくりしても五分で本丸に着きます。
    嗚呼 壮烈 岩屋城址


本丸も狭いです。













本丸最高部この下は大堀切でした。


一周するのに三分













         本丸中央 祠?のような穴

         横から

嗚呼壮烈 岩屋城址碑の後ろから 


展望はすごいです。岩屋城址碑前から



                太宰府天満宮方面


太宰府政庁跡
かつては「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、九州を治める役所・
大宰府の政庁があった場所です。                     
奈良時代から平安時代にかけ壮麗な建築が建ち並んでいましたが、天慶3年(940)に藤原純友の乱で焼失しました。                                 


正面の展望と案内盤
ほぼ正面あたりに島津軍が陣を敷いた観世音寺(かんぜおんじ)が あります                                     

ここから見た五万の軍勢は・・

「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき」
                                               紹運辞世の歌

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