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多治比猿掛城 出丸 

2012年06月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

多治比猿掛城 出丸
 
明応九年(1500)
元就の父、弘元は隠居し、郡山城を嫡男・毛利興元に譲り、
次男松寿丸(まつじゅまるのちの元就)らを伴い猿掛城に入城。
 
 
永正三年(1506)
毛利弘元が没し幼少の松寿丸(10歳)が城主となります
 
永正四年(1507)、後見役の井上元盛に当時元就の領地であった・
猿掛城・多治比300貫を横領されてしまいます。
城からも追い出されてしまい松寿丸はその哀れな境遇から
乞食若殿と呼ばれていました。
 
毛利弘元継室・杉大方に困窮した生活を支えられました。
 
永正八年(1511)に井上元盛が急死し、所領は元就に取り戻されます                                 
同年に松寿丸は元服、毛利元就と名乗り、分家の多治比毛利氏となり
多治比殿と呼ばれてます。                        
 

永正13年(1516)兄・興元が急死。
毛利家家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぎますが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見します。              
 
武田信繁との有田城の戦い、安芸国西条の鏡山城の戦いにも勝利し毛利家中での信望を集めていきました。                  
 
毛利隆元、五龍はこの城で生まれています。
 
大永三年(1523)
甥の毛利幸松丸が9歳で死去すると、元就(27歳)が重臣達の推挙により、毛利家当主となり郡山城に移りました。                 
遠望

案内図

 
教善寺
猿掛城趾の寺屋敷廊群に在ります。
元就の平常の居住地もここだったかも。
天文五年(1536)天台宗より改宗。
永禄七年(1564)本願寺より寺號許可

本堂


銅製?の狛犬

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石段前を通りまずは出丸址に向かいます。
出丸址図
   
 階段。五分も掛からず本丸まで行けます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
階段が整備されています。
                              三段になっています。
 
三の丸より
二の丸を
見る
           
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二の丸から三の丸を見る

二の丸の丸く掘られている所

二の丸(土塁状になっている)?本丸
二の丸土塁上 東側は深く落とされています。


本丸 説明板

説明板前より本丸を振り返る
赤い柵は鹿除けの柵

本丸より北の展望
郡山城はもう少し右なので見えません。

西方の展望


動画

 
 
 
 
 
 
 
 

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