自転車で物語散歩

「漱石 マドンナの坂」シリーズ(6) -『こころ』 13- 

2011年12月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

「K君の来たのは二時前だった。僕はK君を置き炬燵に請(しょう)じ、差し当りの用談をすませることにした。縞(しま)の背広を着たK君はもとは奉天(ほうてん)の特派員、――今は本社詰めの新聞記者だった。「どうです? 暇ならば出ませんか?」 僕は用談をすませた頃、じっと家にとじこもっているのはやり切れない気もちになっていた。「ええ、四時頃までならば。………どこかお出かけになる先はおきまりになっているんですか?」 K君は遠慮勝ちに問い返した。「いいえ、どこでも好いんです。」「お墓はきょうは駄目でしょうか?」 K君のお墓と言ったのは夏目先生のお墓だった。僕はもう半年ほど前に先生の愛読者のK君にお墓を教える約束をしていた。年の暮にお墓参りをする、――それは僕の心もちに必ずしもぴったりしないものではなかった。「じゃお墓へ行きましょう。」」上記は、芥川龍之介の短文「年末の一日」からの引用だ。芥川の散歩メモのようなものなので、実際のエピソードである。K君なる御仁が登場するが、『こころ』のKくんとは、まったく違う。とはいえ、ほんのちょっぴりだが、K君とKくんをひっかけてみようか、そんなイタズラごころから枕に「年末の一日」をもってきたのだが・・・。年末の一日とは、一九ニ五年(大正十四年)の十二月とおもわれる。どうやら、芥川氏はK君と漱石の墓を訪ねる約束をしていたようすだ。夏目漱石の墓は雑司ヶ谷墓地(現豊島区南池袋の都立雑司ヶ谷霊園)にある。漱石のほかには、散歩の大先生である永井荷風も眠っている。まあ、そのあたりの雑司ヶ谷墓地とは、なんぞや・・・、ということはナシにして話を一気に『こころ』へと振ろう。ここで、なるほど、雑司ヶ谷墓地つながりの作戦か! なんて気がついた方もおられるであろうか。では、さっそくに『こころ』からの引用。「上 先生と私」の「四」だ、おもいだしていたければさいわい。「私はその人から鄭寧(ていねい)に先生の出先を教えられた。先生は例月その日になると雑司ヶ谷の墓地にある或る仏へ花を手向けに行く習慣なのだそうである。「たった今出たばかりで、十分になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒そうにいってくれた」私は主人公の"私"であり、「その人」は先生の奥さん、「或る仏」は誰か、冒頭では不明だが、のちにKくんとわかる。そして、"私"は、先生を追っかけるように雑司ヶ谷へ向った。「私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気になった。先生に会えるか会えないかという好奇心も動いた。それですぐ踵を回らした」"私"は運よくも先生をつかまえることができた。そして、二人は墓地内を話しながら帰路へ。「墓地の区切り目に、大きな銀杏が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄葉して、ここいらの地面は金色の落葉で埋まるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった」墓地では、一本の大きな銀杏がデンと構えていたようだ。この木には、芥川氏も「年末の一日」に記している。「大銀杏の葉の落ち尽くした墓地は不相変きょうもひっそりしていた。幅の広い中央の砂利道にも墓参りの人さえ見えなかった。僕はK君の先に立ったまま、右側の小みちへ曲って行った。小みちは要冬青の生け垣や赤錆、のふいた鉄柵の中に大小の墓を並べていた。が、いくら先へ行っても、先生のお墓は見当らなかった」おやおや、墓案内人芥川氏も大銀杏を目安にしたようだが、肝心の漱石先生の墓にたやすくは行きつけなかった様子だではないか。これには漱石さんも墓下で、苦虫を噛み潰しての薄笑いか、それともバ〜カめ、と一喝しながらの呵々大笑か・・・。しかし、芥川氏の陰口を叩く資格が筆者にはない。なぜならば恥ずかしくも、筆者は雑司ヶ谷墓地界隈は何度も散策しているが、墓地に踏み入ったことがない。ようは、墓マイラーなる素質が欠如しているようだ。しかし、自分が墓にはいる前に、漱石先生と荷風御大の墓は見物しておこうか、とはおもっている。【漱石・マドンナの坂地図】に「雑司ヶ谷墓地」を追加。■本日もお立ち寄りありがとうございます。※マドンナの坂シリーズは、まだまだ続ける予定だが、次からはニ、三回ほど、寄り道ばなしをしてみたい。

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