自転車で物語散歩

「漱石 マドンナの坂」シリーズ(6) -『こころ』 9- 

2011年12月08日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

旧町名の小石川上富坂町あたりを、筆者は"私(先生)"のあらたな下宿先と推測している。しかし、その場所は、小石川表町である、というのが通説であるようだ。たとえば、『漱石の東京』武田勝彦氏も小石川表町説だ。その決め手となるのは、拙ブログの『それから』編、三千代の家のおりにふれたのだが、漱石が伝通院のお隣さんにある法蔵院に下宿していた、という切り札があるからだ。しかるに、筆者がおもうには、小石川表町はほとんどが伝通院の敷地で占められている。ゆえに、この表町からは、世俗から離れてごちゃごちゃと暮らす生活の匂いを筆者はかぎとることができない。どう頭をひねっくても、夕暮れ時に玄関先でサンマを焼く煙が小石川表町に漂うとはおもえない。その町には、どうしても、精進料理をおもわせる抹香の雰囲気が似合いそうなのだ。ゆえに、漱石さんの足あとだけを根拠にし、"私(先生)"の下宿先を小石川表町である、とドンと受取印を押すにはためらいがある。おっと、今日の本題は、前回の千川通りをひきずらなくてはならない。では、ポンと筋を変えたい。この『こころ』散歩は、あと三回ほどで終わる予定だ。それでも、一、二回は寄り道するかもしれないが・・・。では、さっそく残り三回のうち、その一をはじめたい。「私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻ってまた富坂の下へ出ました。散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間に話した事は極めて少なかったのです」上記は、"私(先生)"が下宿に腰を据えてから、先生の友人であるK君が先生と同じ屋根の下で暮らすようになってからのある日の散歩の光景だ。植物園は現在の小石川植物園のことで、江戸期の小石川療養所の跡地だ。そのへんの変遷はともかくも、漱石さんの時代には帝国大学植物園なるいかにも厳しい名であった。現在も、正式名称は国立大学法人 東京大学大学院理学系研究科付属植物園 本園 小石川植物園 ではないかとおもわれる。ちなみに、小石川植物園は年末年始の一週間ほど、それと毎月曜日が休園で、入園料は大人が330円だ。けっこう、植物園は広い敷地なので、もろもろの維持費を気にかけると、実にお安い330円であろうと、筆者は日頃からおもっている。ところで、この入園の切符は売店で買うわけだが、この購入スタイルがちょっとおもしろい。有料の園といえば、だいたいが門の脇に番小屋のようなものがあり、オジサンやオバサンが料金を徴収しているものだ。が、小石川植物園では、門の向かい側、四メートルほどの道を隔てた駄菓子屋風のお店(民間経営)から券を仕入れることになる。よって、筆者はいつも考えてしまう。このお店は、国立大学法人 東京大学大学院理学系研究科付属植物園 本園 小石川植物園から、手数料をもらって券の販売をしているのであろうか、そもそも、どうしてこのお店で券を売ることになったのか・・・。などと、植物園の前を通るたびに、いらぬおせっかいであろうことをほじくってみたくなる。おや、まあ、くだくだと植物園にふれていたら、予定の字数になってしまった。"私(先生)"とK君が散歩のコースだ。小石川上富坂町から小石川植物園、直線にすると二点間距離は一キロメートル足らずか。が、「二人は伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと廻ってまた富坂の下へ出ました」を、それなりに描いて実際の道をたどってみると、あっちこっちで右に曲がり左に曲がり、くねくねと歩かなくてはならない。しかも、往時の地図では、その道が今ほどにはすっきりと整えられていない。漱石先生が、「散歩としては短い方ではありませんでした」、それがなるほどとうなづけてしまう。※今、植物園から富坂下に至るには、千川通りを十五分ほど、せっせと歩くだけだ。"【漱石・マドンナの坂地図】" に「千川通り」と「小石川植物園」 を追加。■本日もお立ち寄りありがとうございます。※次回こそは、こんにゃく閻魔をからめて、 "私(先生)"と散歩してみたい。

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