筆さんぽ

男の嘆き 

2024年02月18日 ナビトモブログ記事
テーマ:読書案内

孤独を感じたとき、読む本がある。開高健の『珠玉』(文春文庫)の第一話、『掌の中の海』にアクアマリンという宝石が登場する。

主人公が訪れたとある酒場。そこで「高田先生と呼ばれる初老に近い人物」と顔見知りになる。若いころ高田先生は軍医で、北京や上海で長く暮らしたことがあり、その後は九州で開業していた。ところが、同じく医師を目指して勉強中の息子が、突然行方不明になってしまう。

スキューバ・ダイビングに熱中していたから、どうやら海で事故に遭ったと思われる。二年近く、九州から東京に出てきては、警視庁で全国の行方不明人の情報を聞いて一人息子の行方を探していた。「某日、先生は発心する。則天去私と思いつめる。すでに妻は彼岸に去って久しくなり、

今また息子が海で分解したのなら、家や、財産や、地所を持っていたところでどうっていうこともない。息子のあとを追って海へ出よう。船医になって船に乗り込み、この海に息子が体がとけているんだと思って墓守の心境で余生をすごすすことにしようと思い決める」。乗り込む船の国籍も問わず、次々と遠洋航海を繰り返している。

ある年の早春、主人公は先生の下宿に誘われる。下町のモルタルアパート、トイレは共同、風呂はなし、万年床と埃をかぶった本の山があるだけの部屋である。先生はどこからか、スエードの皮袋を取り出した。

紐をほどくとザラザラと出てきたのはアクアマリンであった。「指輪の台座がついていない、こういう裸石をルースというらしいですが、船乗りは現代でも板子一枚下は地獄と思っていますから、ジンクスから離れられないんです。この石はきれいな海の水にそっくりなので、昔から船乗りのお守りだったらしいです」。

 女性は宝石を身につけて楽しむ。宝石の輝きを自分の肌と一体にして自分自身を煌めかせるために愛でているのだろうか。男性は少しちがう。宝石の中に自分自身の世界を見つけて、その中で奔放に浮遊するようである。アクアマリンは夜の光で見るといいと、先生は電燈を消し、蝋燭の灯をつけた。

「闇というもののない大都会の夜の光が石を海にした。掌のなかに海があらわれた。はるかな高空から地球を見おろすようであった。掌のなかの夜の海は微風のたびに煌きわたり、非情な純潔さで輝いた」 
 そんな青い海のなかで先生は呟く。

「さびしいですが、私は。九州者のいっこくでこんな暮らしかたをして、石に慰められとるんですが。どうしても血が騒いでならんこともあるです。私はさびしいです。さびしくて、さびしくて、どうもならんです」。
青い煌きのなかで、男の嘆きが静かに溶けていく。

 『珠玉』は開高健の遺作となった。解説で文芸評論家の佐伯彰一さんはこういう。「瀕死の床からなおも読者に語りかけようとした開高流の遺書といえるかも知れない」


●男の嘆きというと、この句を思う
咳をしても一人   尾崎放哉

先のブログでご紹介した放哉の自由律俳句。
病で咳に苦しんでいる。であるのに、誰も助けてくれない。一人りきりで苦しんでいるということであろう。そうだけれども、副詞の「も」が気になる。あれをやってもこれをやっても、咳をしても孤独だ。これを突き詰めていくと、自らを裁くという危険な領域に入りかねない。どうしても気になる句だから、つい立ち止まってしまうが、同じ放哉のこの句で心静めることにしている。

雀のあたたかさを握るはなしてやる   放哉
孤独に生きる放哉が地に落ちた雀を拾う。「さあ、お帰り、キミの世界へ」。自分に話しかけるように。



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