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喪中葉書2枚 (11/11) 

2020年11月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 とある知人の雪景色、あまりに美しいので。見た目はね。でもこれから長く厳しい冬が始まるのです。
 毎年のことですが、喪中の葉書が届き始めています。昨日は2枚届きました。1人は、かつてのいっちゃんの職場の教頭先生でした。一緒にパッチワークを習っていた奥様からの、お知らせでした。
 もう1人は、中学の担任の先生、こちらも奥様からのお知らせでした。小学校から大学まで、どれほどの人に教えを受けたか数知れずですが、私の生き方に大きな影響を及ぼした点で、はっきりと恩師と認識しているのは、中学の音楽の先生と、この担任T先生(以下T)の2人です。
 Tは、青森の大間生まれで、貧しくて「わかめ」のようなズボンをはいていた(何となくわかります)と言う話をしていました。苦労して北海道の大学を出て教員になり、父が務めていた学校に来ました。かなりのやんちゃで「もしもし、学校かい」と横柄な態度でかかってきた電話に「学校は口きかない」と言い放ち、電話を切ったというエピソードは有名でした。父はTを弟分のように(10歳くらい下)かわいがり、Tも又父を慕っていたようです。 巡り巡って、私の中3の担任になり、良くうちにも遊びに来ました。2人とも飲んべで、楽しそうに、教育を語っていた・・・かどうかは、思い出せない。赴任時のあいさつが「何事も妥協しないでいきましょう」の一言で、強烈な印象でした。あまりの変人ぶりに、周囲は大変だったでしょう。今は当たり前の、歌声によるクラスづくりの先駆者だったのか、音楽が好きな私は嬉しかったのでしょう。Tは数学教師、私の数学は、さっぱりでしたが。
 女子バレー部を受け持ちましたが、それまで1勝もできていなかった超弱チームを、4月から教えて、その数か月後には、地区では敵無しになりました。それはそれは見ていて恐ろしいスパルタでした。当時のバレー部員に、感想聞いてみたいです。
 妥協せず、従来通りに・・・を嫌い、はその後の私の指針になりました。楽しいけど、生きにくい時もあったけどね。
 Tは後に、若くて聡明な英語の先生(弟の担任でした)と結婚し、子供さんにも恵まれ、やや丸くなりながら、教員生活を全うし、その後も教育にかかわる活動を続け、この所は病がちになり、84年の人生を終えたそうです。
 私が歌い続けているのを、とても喜んでくれて、ファーチレのコンサートにも、何度か足を運んでくれていました。
 きっとあちらで、父と酒を酌み交わしていることでしょう。
 これから、灯台下暗しの、声楽のレッスン受けに行って来ます。

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