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折角、ブログ発信のチャンスを与えて頂いているので、1943(昭和18)年生まれの私なりの戦後目撃史を記述します。 

2020年08月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

今、多くの人の命と生き方を蹂躙した
   戦争の記憶を語る人の高齢化が進んで、
  戦争の記憶・目撃した事を、
    後世に伝える事の大切さが、
     改めて、問題に成って来ています。
   
    その事と直ちに関連する訳ではないですが、
     私は、終戦の2年前
     1943年(昭和18年)にこの世に
        生を享けました。
     私は、幼い眼差しなりに、
      戦後の日本世相を目撃して来ました。
今までこのブログ夢想花、でも、
      戦後の思い出に触れて来ましたが、
       改めて、私なりの戦後目撃史を    
        このブログで、記述していきたい
と、思っています。
       私の主観が過ぎるかも知れませんが、
皆さまに、
若い世代の人たちや子ども達に
   少しでも、今年、喜寿の私なりの
    思いが伝わって
    日本と世界の、平和と安寧に、
      寄与できればと、
   戦後目撃史を記して残したい・・・!!!
ブログ発信の機会を与えて下さった
     滋賀咲くブログさんに感謝しつつ、
      自分なりの戦後目撃史を
     記述させて頂きたいと思います。
 駄文ですが、お目を通して下れば
        有難いです。
      よろしくお願いします。m(__)m

    〜〜〜〜〜〜〜
あの戦争が終わる2年前の、
  昭和18年の1943年に
       私はこの世に生を受けました。
もの心ついてから、私は
日本の世相というか、世間の様子を、
   幼い眼差し、少年の眼差し、青年・壮年として、
  そして今、後期高齢者として、見詰め、ブログ夢想花を、
 ほぼ連日発信して、
世の平和と安寧、皆さまの幸福を願って発信しています。

 子どもの頃、私は、無邪気な眼差しで、戦後の様子を見ました。

 小さな日の丸の旗を持って、
復員兵さんが汽車で帰って来るのを
    国鉄二条駅のプラットホームに迎えに行きました。

 家の近くにあった京都の天神さんの境内では、
戦争で傷ついた傷痍軍人さんが、
   アコーディオンを鳴らして歌って
投げ銭(この言葉も後で知ったのですが・・・)を求めて
      居られたの見て来ました。

 小学校入学した昭和25年ですが、
入学前の数か月、子どもの私は、
磁石を地面に這わせて、釘や金物(かなもの)を拾い、
  それをザルに入れて、業者さんに売って、
  小遣い銭稼ぎをして、
 駄菓子屋さんで、飴を買ったりして喜んでいました。
後で聞くと、その金物は、
   朝鮮戦争の兵器に使われていた、そうです。

木箱の雑音の多いラジオからは、
  マッカーサー元帥への歓声が放送され、
  両親からはマッカーサー元帥のことや、
    戦争の話をいつも聞いて育ちました。

 いつも食べるものが無く、
空腹・腹ペコの子ども時代で、
小学校入学して嬉しかったのは、
お昼の給食が楽しみで、
   その為に、学校へ通ったようなものです。

    (以下、次号以後に、続けます。)
      よろしくお願いします。m(__)m




※ そんな思い出、
戦後目撃した日本の世相への思いを 
    このブログでも触れて来ました。
     ダブルかも知れませんが、
       補強する意味でも、ぜひ、 
      クリックをお願いします。m(__)m   
https://poeny.shiga-saku.net/search.php?csrf=afee0dca3d679a298c6a8a48f2a8963ab5b08f22&search=%E6%88%A6%E5%BE%8C      

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