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ZRX1200S城

上月城跡 

2011年07月22日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


 
上月城跡

 
上月城は播磨・美作・備前の三国の国境にある要衝の地で毛利側としては織田氏との対決の為には
絶対に手に入れなければならない拠点でした。



 
一時は羽柴秀吉の手に落ちます。
秀吉は尼子氏残党である尼子勝久を擁した山中幸盛(鹿介)に上月城の防衛を任せました。


 
毛利輝元は上月城の奪還と尼子残党の討伐を計画。


 
35,000の大軍を率いて吉田郡山城を出陣、
小早川隆景も28,000の兵を率い三原城を出陣して山陽道を進撃、
吉川元春も23,000の兵を率い日野山城を出発して山陰道を進撃、上月城攻略に向かいました。


 
毛利氏の傘下にあった備前の宇喜多直家も弟の忠家率いる10,000の兵を派遣しました。



 
毛利・村上水軍700艘が播磨灘に展開し、海上の封鎖も完了します。


 
この時の総動員兵力は十万人を超え、打倒尼子の意気に燃える毛利氏の執念を垣間見ることができます。


 
輝元軍は備中高松城に本陣として駐留。
残りの61,000が播磨へと向かい、上月城の包囲を開始しました。


 
上月城を守るのは尼子勝久を総大将とし、山中幸盛・尼子氏久・尼子通久・神西元通らの諸将が率いる
3千の兵でした。


 
毛利軍が上月城に迫ったとの報を受けた際、羽柴秀吉は三木城を攻撃中でしたが
上月城の支援を決意し、一万七千の兵を率いて高倉山に進出しました。
織田信長も嫡子・織田信忠に兵を授け、救援に向かわせました。


 
織田軍の総兵力は72,000でしたが、三木城他、播磨国東部の守備に多くの兵を割かねばならず、
実際に上月城救援に向かえる兵力は羽柴秀吉・佐久間信盛・荒木村重率いる三万、
その中でも秀吉が直接指揮できる部隊はわずか一万七千人でした。



 
毛利軍は陣城の構築を進めており、深い空堀や塹壕を掘り、塀を巡らし柵や逆茂木で防備を固め、
完璧なまでの攻城線を敷いた。
連日法螺貝や太鼓を鳴らし威嚇行動を行い、城内に籠る尼子軍の戦意を喪失させようと画策しました。


 
毛利軍は城を強襲するつもりはなく、月山富田城攻略のように兵糧攻めにし、
尼子軍の自滅を待つ作戦でした。上月城の水源も押さえ、なおかつ糧道も完全に断ちました。



 
秀吉軍は上月城の目と鼻の先である高倉山に駐留するものの、圧倒的に劣る兵数では上月城に対する積極的な支援を行うこともできず、自陣の防衛だけで手一杯であった。隙を見せれば毛利軍60,000が一斉に襲ってくる恐怖は秀吉にも耐えがたいものでした。


秀吉は密かに高倉山を抜け、京都へと走り、織田信長に直々の出陣を要請した。
しかし信長はまずは三木城の別所長治を討つべしと秀吉に命令します。


 
このまま三木城を放置していては、中国に進出している織田軍は退路を断たれます。



 
上月城の尼子主従はここに見捨てられることとなりました。


 
秀吉は尼子主従の忠義を思い、「上月城を棄て、共に撤退するよう」尼子軍に書状を出しましたが、
尼子主従はこれを黙殺し、毛利軍との対決の道を選びました。



 
尼子主従は抗戦を諦め、城兵の助命を条件に尼子勝久・尼子氏久・尼子通久、そして勝久の嫡男である
尼子豊若丸らは自刃し、開城することとなりました。


 
山中幸盛(鹿介)も捕虜となり、後に備後国鞆に送られる途上、備中国成羽で殺害されました。


 
上月城攻防戦は幕を閉じ、尼子氏再興も夢と消えました。



 
上月城資料館




 
説明看板
秀吉もむごいことをしています

天正五年(一五七七年)、織田信長は毛利氏攻めの爲、
羽柴秀吉を總大將として播磨に入り、毛利に与した佐用の福原城を攻略し、
高倉山に本陣を置き一萬五千の軍勢で上月城を包囲し、救援に馳けつけた宇喜多直家の軍を退け、十二月三日遂に上月城は落城、政範は自刃して果てた。
秀吉は城中將士の首を悉くはねた上、見せしめの爲、城中の女子供二百人を串刺
と磔にして、備前美作、播磨の國境附近にさらした。今も地獄谷の名が伝っている。
                                  (説明看板より抜粋)


 



 
上月城の姿。
要害の地だが細い尾根を利用した城で囲まれたらなすすべがありません



上月城図  毛利軍にびっしり囲まれています。



上月合戦




 
資料館の広場を挟んだ前に登城路があります。




 
ジグザグ道で一気に高度を上げて行きます


 
最初の展望




 
しばらく尾根上を歩きます。




 
堀切があります。




 
上から堀切を見下ろす




 
本丸下まで来ました。




 
本丸上 木が生い茂り展望がありません








 
秀吉が布陣した高倉山が見えます。





 
本丸を過ぎるとまた尾根上の道です。




 
唯一展望できる場所
利神(りかん)城が望めるとの説明がありますが肉眼では
ちょっと色が変わっているほどしかわかりません



ズーム(約93.8倍) たしかに利神城でした。




 
ここからまた尾根道です



すぐに下山道まで着いてしまいました。




 
また来た道を戻ることにしました。


 



 
本丸に戻ってきました。



麓の尼子勝久・山中幸盛(鹿介)の碑





 
秀吉軍は撤退準備に入った時、これを察知した毛利軍が攻撃を開始し
羽柴軍は一時は総崩れとなり大打撃を被りました(熊見川の戦い)


 
毛利軍がそのまま東進し織田信忠と対決に及ぶことはありませんでした。


 
秀吉は以後の中国攻略で毛利軍との直接的な戦闘を避けています。


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