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管弦祭 地御前神社 

2011年07月19日 外部ブログ記事
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管弦祭 地御前神社

管弦とは、
三管[笛・笙(しょう)・笳(ひちりき)]、

三鼓[太鼓・鞨鼓(かっこ)・鉦鼓(しょうこ)]、

三絃[倭琴(わごん)・琵琶・箏(こと)]

これらを合奏する音楽のことで、古くから都では、池や河川に竜頭鷁鳥[りゅうとうげきしゅ]の船を浮かべて優雅な『管絃の遊び』をしておりました。

 平清盛は、この遊びの形式を厳島神社に移し、
遊びではなく厳島大神(市杵島姫命[いちきしまひめのみこと]・田心姫命[たごりひめのみこと]・湍津姫命[たぎつひめのみこと]の三柱の姫神様)をお慰め奉るために行いました。
 
平安時代の宮島は島全体が神様と崇められ、島内に人が住むことができなかったため、

清盛公は厳島神社の姫神様がお乗りになる管絃船[かんげんぶね](御座船[ござぶね])を造り、舳先の左右に篝火を焚き、御鳳輦[ごほうれん]前のぼんぼりや、艫に掲げた高張提灯、
二十数個の飾提灯に明かりを灯し、その灯火を暗い海に映しながら、

船は華やかな灯の屋形となって、対岸の地御前神社から厳島神社まで、
約6劼竜?イ鯒叛鼎な瀬戸内海の波に揺られながら、船内で管絃を奉奏し、
神様をお慰めする神事を行いました。

鎌倉中期以来、人々が島内に住むようになってから、管絃船は宮島を出御し
地御前神社を廻って還御する行程となり、現在に至っております。

祭典は、午後四時厳島神社の本殿で発輦祭があり、次に御鳳輦を管絃船に移し、
大鳥居前の儀を終えて、船内で管絃を合奏しながら対岸の地御前神社に向かいます。
火建岩で一時停船し提灯にあかりがともる頃、地御前神社からの御迎船を水先に神社前の浜辺で祭典と管絃が奉奏されます。
祭典後管絃船は宮島に向かい、長浜神社・大元神社で順次祭典を行い、大鳥居をくぐり、客[まろうど]神社前で祭典と管絃があり、更に狭い枡形に入り管絃船は一気に三回転しながら管絃を奉奏します。
このダイナミックな儀式が宮島管弦祭のクライマックスであり、参拝客の興奮した声といつまでも鳴りやまない拍手は、潮の香りがする廻廊に響き渡り、夜空には満月が輝やいています

現在は和船を三隻並べて一艘に組みますが、昔は大きな船を一艘作ったようです。
この船には「櫓[ろ]」が六挺ありました。
元禄十四年(1701年)管絃船が地御前神社から宮島の長浜神社に帰る途中、急に雨や風が激しくなり、まさに転覆寸前となりました。
その時嵐を避けて錨をおろしていた阿賀村の『岡野喜右衛門』の鯛網船と、九州から帰路の途中厳島神社に参拝する江波村の『古川屋伝蔵』は、二次遭難をかえりみない勇気ある行動で管絃船を救援しました。
更に江田島の田頭一家の船は、赤あかと篝火を焚いて大鳥居をくぐり、管絃船を本殿まで曳航しました。

 この遭難事故以来、阿賀と江波の両村が漕船を奉仕することとなりました。阿賀の漕船は鯛網船であった関係で現在でも櫓を用い、江波は伝馬船であったから、その形式を残した救援船で十四挺の櫂を備えた伝馬船です。
                        (社)宮島観光協会ホームページより


いつもはひっそりとしている地御前神社も屋台が出てにぎやかです。


海側に廻って見ます


かすかに管弦船が見えます。

望遠


地御前神社の対岸の火立岩沖に到着し、
江波漕伝馬船はいったん御座船から離れ、地御前神社へに向かいます。

管弦船を沖に残し江波伝馬船が近づいてきます。


たくさん乗っています。
が漕いでいるのは半数です。


若者が親父衆にこき使われています。


地御前神社前で盆踊りをおどり 

電車の線路を渡り


また船に戻ります。
御座船が近づいてきています


夜の撮影はほとんど失敗しました。
一脚を忘れたのが悔やまれます。








船の先のかがり火で船が燃えるので常にひしゃくで水をかけています。

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