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お宝発掘 (10/24) 

2018年10月24日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 病気、少し悪くなっちゃったか、両腕がだるいです。でも、地震のストレスによる一過性のものだと思いたいです。今日はパーキンソン病院です。
 地震のおかげなんて、決してありえませんが、物に対する考えが変化し、グズグズと処分を保留していた物を、何とかしてみようかと言う気になっています。でも、体がついていかない状態です。ノロノロとやっています。
 ぐちゃぐちゃになった物置には、にはいっちゃんの蔵書(の半分くらい)やプロレスと旅の本や資料、仕事の記録、引き取った母の物、母がえりすぐって残した父の物、同じく私の子供時代の物、高校までの息子の本、頼まれたわけでもないのに残してある息子の物などが、どっさり入っています。幾度かは捨てて、減ってきてはいたのですが、これを機に一気に減らしたいと思いました。減れば、家の中にあるまだ捨てる決心がつかない物を、物置に移せるもね。
 母は一時、子供にピアノを教えていたので、その未使用の教材(楽譜や音楽ノート)がけっこう残っていました。趣味でやっていた大正琴の楽譜もありました。いっちゃんは写真を撮るのが大好きで、たくさんの息子の写真を母にあげました。母はいつも喜んで、丁寧にアルバムに保存していました。当然同じ写真が家にもあります。それらを一気に処分。
 その中に、古ぼけた和紙で装丁された厚い本がありました。写真集でした。「北海道廳立小樽工業學校 卒業記念寫眞帳」と書いてあります。廳は庁、學は学、寫眞は写真です。要するに、父の卒業記念アルバムでした。小樽工業學校とはたぶん旧制中学で、後に北海道小樽千秋高等学校→北海道小樽工業高等学校、そして今年北海道小樽未来創造高等学校になった所でしょう。
 父は昭和2年の早生まれですから、入学は14年春、卒業は20年3月と思われます。戦争のまっただ中、モノクロではありますが、こんなにりっぱな卒業アルバムが作られていたことに驚きました。残念ながら、最後の数ページが取れていて、探しましたが見つからず、誰がどんな風に編集したのかがわからないのですが、手描きのカットがあったり、レイアウトが工夫されてあったり、今のものと基本は変わりはありません。和紙だからこそ、73年を経過してもしっかりしているのだと思います。
 父が何科だったのかもわからず、ひたすらページをめくりました。機械科に父の名を見つけました。同じ写真に写っている生徒の名前の横に赤ペンで、「印刷工場」「三井砂川」「帯広自動車…(読めない)」「自営業」等と書き込まれていて、父本人は、「東京芝浦電気株式会社」の川崎工場に就職したと聞きました。目が悪くて特攻隊になれず、電波探知機を作っていた、工場が空襲を受け、布団かぶって逃げた、仕方なく北海道に帰ってきた。私が聞いていたのはそれだけでした。
 今回片づけをしなかったら、私は一生その存在に気付かなかったかもしれません。

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