メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

むぅびぃ・とりっぷ

麻原彰晃の四女・いじめと家出と父との面会 

2018年07月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


月刊誌「創(つくる)」は、ぼくが気の向いたときに買う月刊誌の一つ。この雑誌は事件ものに面白い記事がある。麻原元死刑囚は執行7分前の7月6日午前7時53分ごろ、東京拘置所の職員に遺体や遺品の引き受け手について聞かれ、「ちょっと待って」と言ってしばらく黙った後、「四女」と答えたという。職員が四女の名前を出して確認したところ、うなずいた。 とのニュースを読んだときに、かなり前の「創」に確か4女の記事が掲載されていたはずだと思い、探し出した。8年前の雑誌だった。今、読んでも充分に読み応えのあるインタビュー記事が掲載されていた。「オウム真理教」の元教祖・麻原彰晃(松本智津夫)には妻との間に4人の娘と2人の息子がいる。月刊誌「創」2010年6月号に、麻原彰晃の四女に対する篠田博之氏のインタビュー記事が8ページ載っている。これは、オウム真理教の身内側から見た、父・麻原彰晃に対する貴重な情報記事だと思った。今回、登場する四女は当時、20歳との事。その記事から、印象に残った四女の言葉を拾っていきたい。意識的に、インタビュー者の声はカットしています。(※ 言葉と言葉の間の意味を埋める為に、多少の変更を加えています。)● 中学での男子のいじめ私は1989年、静岡富士宮市の教団総本部で生まれました。松本智津夫の子どもとしては教団施設で生まれた初めての子どもです。1995年3月に地下鉄サリン事件が起き、5〜6月に両親が逮捕されてから、千葉県の祖父母の家に引き取られましたが、それまで学校教育は受けていませんでした。 2000年7月に私たちは、栃木県大田原市から茨城県龍ヶ崎市に転居します。そこで就学拒否騒動が起き、裁判を経て小学校に入ったのですが、学校でいじめを受けたこともありました。たとえば給食当番で、私がよそった給食を受け取ってもらえなかったり、行事のときのクラス写真が掲示板に貼られていると、私の顔に穴があいていたこともありました。いじめは中学校に入っても続き、中学の終り頃になると、男子からの暴力も加わるようになりました。廊下にいるとボールで狙い撃ちされたり。「戦争か?」っていうくらいに、毎日アザだらけになっていました。龍ヶ崎の家周辺では住民の立ち退きを求める運動も激しく、私の通学路に「オウムは出て行け」という看板がたくさん出ていました。2002年10月に、母が出所してきました。私は、母の出所を心待ちにしていました。これで友達から「松本さんの親は何の仕事をしてるの?」と尋ねられても、堂々と答えられるようになると思っていたんです。でも帰ってきた母は、その後一度も就職していません。信者の人に仕事を取ってきてもらって、それを下請けする形で、家でできる仕事をしていました。でもうまくいかなかったのか、わりと早い段階で、教団からお金を援助してもらう道を選んだようです。教団から毎月渡されるお金のほかに、信者個人からのお布施もあったと思います。私はそういう家族のあり方が嫌でした。2005年に一度家を出ようとして、児童相談所に身を寄せました。その後、親権を停止することができないと知り、一度母のところに戻りました。● 父の姿が見え始める家出をする前後、一種の現実逃避だったのかもしれませんが、辛いことがあると修行に逃げていた時期がありました。ところが、一心に修行に打ち込んでいたら、ある時から父の姿が見え始めるようになったんです。そしてその父がいろいろ指示を出してくるようになりました。私は基本的に、スピリチュアルというか、現実的でないことはあまり信じない方ですが、姿を現すその父が私に「こうしろ」というのは、いつも私の意志や願望とは違うことだったので、「どうやらこれは自分ではない、別の存在らしい」と思うようになったんです。幻覚だとわかりながらも、それはあまりにリアルで、殴られると本当に痛いし、アザができていたりするんです。だから、逆らいようがなかった。毎日、父親が現れた。父はもともと殺気があって怖い存在だったので、見え出した当初は、なんとか父の姿が見えないようにと努めました。それに当初は、自分がおかしくなったというか、いわゆる霊障だと思ったんです。それまでも、信者で何人かそういう状態に陥ってしまった人がいましたから。宗教的に言うと、グルが見える段階というのがあるのですが、「あなともその段階に達したんですね」「それは尊師の言うことを聞くべきですよ」と、上祐史浩さんも含め、みんなに言われたんですね。だから父の言うことを聞いたとも言えます。父は私に、何とか教団をまとめるために力を尽くしてほしいと言っていました。家出をした後、教団そのものではないけれど、元信者のところにいたので、正悟師たちとやりとりすることがありました。それぞれ対立している村岡さんからも上祐さんからも「教団を手伝ってほしい」と言われていました。私に教団の取りまとめ役をさせようという、そういう流れになりそうだったので、私は身を引いたんです。だから上祐さん、村岡さんのどちら側にもついていません。元信者の中には、脱会してから教団や教義と本当に縁を切った人もいますが、私が接触していた元信者は、心からやめた人ではなかったので、次第に意見が対立するようになりました。私はちゃんと働いてお金を稼いで、自立して、できれば被害者の方々に賠償する、ということをやっていきたかったんです。新聞奨学生になろうとして面接を受けたこともありました。でもそのときも、住む家(寮)も向こうで用意してくれるという話だったのに、信者の人が介入してきて、「教団でマンションを借りますから」と言われてしまいました。それでは自立したことにはなりません。● 江川紹子さんとの出会い迷っているときにたまたま手に取った雑誌に、江川紹子さんが書かれた記事が載っていました。「そういえば江川さんがいらっしゃる!」と思ってメールを送ったんです。江川さんのところには、未成年後見人になっていただく前から数えて、一年ほどお世話になっていました。後見人になっていただいた後は、ご実家に住ませていただきました。江川さんに言われて、家計簿をつけ始めたりもしました。江川さんには、法律的な後見人になっていただくだけで私はよかったのですが、自活していくことより勉強を優先しなさいと言われて、自立できないことへの不甲斐なさがどんどん積もっていきました。それで江川さんのもとを出て、派遣会社に登録して働き始めました。教団は解散すべきだと思います。解散してしまえば被害者の方々に補償ができなくなってしまうという人もいますが、それでも解散してほしいと被害者の方々が思っていらっしゃると聞いています。父親(麻原彰晃)については、他人だと思っています。戸籍上は肉親ですが、精神的には、父も他の家族も皆、「他人」です。取材に答えるときはわかりにくいので、「父」「母」と言っていますが、私の率直な気持ちとしては、もう「松本さん」というふうにしか捉えられません。たぶん私は、身内に死刑囚を持つ人間としては珍しいと思いますが、死刑制度についても反対ではないんです。かつては反対でしたが、でも今は、父に限っては・・・・・・死刑になるしかないと思っています。罪を犯してしまった後でも、もし父ができるだけのことをやって、きちんと説明責任を果たしていたら、もう少し父を認められるのかもしれません。でも父は黙りこんでしまって、何の責任も果たしていません。だから死刑になるしかないと思うんです。ただ、幹部の人たちまで死刑になってほしくはないと思っています。●「離婚しないの?」と母に父の面会には、家出してから3〜4回、全部で6回行きました。精神的におかしくなったと言われているけれど、私の話したことは、伝わっていると思います。病気の間は死刑執行ができないはずなので、死刑を回避するためにやっていることだと思っています。父は車いすに乗って、両目ともまぶたが塞がっている状態ですが、私の前に出てくるときは、それほどひどくはないと思います。奇声を発したりということはずっとありますが、2008年6月の最後の面会だけはありませんでした。なぜかはわかりませんが、このときだけは、父と会話もできました。2005年8月の面会で3回、父は娘の前でマスターベーションをしました。でも、私は父がわざとそうしているんだろうなと思いました。たぶん二女も三女もそう思ったのではないかな。母親は面会には行ってないようですね。離婚するという話もあって、一度電話で「離婚しないの?」と母に聞いたんですが、黙り込んでしまいました。離婚したら、世間の目もだいぶ変わると思うのですが。かつては、職場でも教団のことを友達全員に話していました。ただ私の世代は、言っても知らない人が多いんですよね。「なんで仕事辞めたの?」って訊かれて、「実は私、松本智津夫の娘なんだ・・・・・・」と打ち明けたら、「誰それ?」と言われて・・・・・・。「どこのオッサン?」って。これからは普通に働いていきたいです。それで収入に余裕が出てきたら、個人的に、被害者の方に賠償したいと思っています。私にできることとしては、犯罪被害者救援基金のようなところに寄付することだと思っています。どこの誰からのお金かわからなくても、それがいいんだと思います。その後、父親の幻覚はありません。おかしくなりそうだったら早めに睡眠を取るようにしていますし、カウセリングにも通っています。かつては、宗教的な修行をすることで精神的な不安定さを治そうという気持ちがありましたが、今では全くそういうことはありません。今はちょっと極端なんですが、無神論者です。何も信じていない。                     *四女のインタビュー記事から、抜粋した以上の内容は一部分です。これを読んで興味をもたれた方はぜひ「創」2010年6月号を購入して読んでください。 PR:創 (つくる) 2010年 06月号 [雑誌]

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ