身近な危機管理

災害と飢餓 

2010年07月13日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


戦争中のことであるが、人は食料がなくなると栄養失調状態になり、いかに早く体力が劣化(衰え)て無力化し、死の危険に陥ることになるかを体験した。昭和20年6月23日、この日、横浜市が600機余りの大空襲を受け、壊滅した。数十万人の市民は、家を焼かれ、食料を焼かれて、ただ呆然自失の状態に陥っていた。私がいた金沢区の追浜は幸い爆撃を免れ、空襲後は直ちに横浜市民の救護が命令され、取り敢えず、食料の補給として市民に「握り飯」を配ることになっり工場の食堂の炊事班は、一切に飯炊きに全力をあげ、我々学生生徒はそれを配色缶に詰めて、トラックに積み込む作業に入った。昼近くから作業を始めようやく作業が終わったのは夕刻であった。1万数千人が働く工場の食堂で供給されてきた飯米は、この救援作業で一切無くなってしまった。これまでは兵食(一般の水平の食事)として十分に白米の飯が腹一杯食べられていたが、この日以来、米の飯を食べることが出来なくなり、代わりに高梁米と芋が混ざった食事でそれも量がこれまでの3分の1程度に減らされた。然し、作業はこれまで通り過酷な重労働であり、工場内は炉で高温の為、体力の消耗は見る見る内に進んだ。特に、我々の班は、焼鈍炉に使う石炭を4日おきに遠くの石炭貯蔵庫まで行き、4tトラックに満載する超重労働があった。これまでトラック一杯に石炭を積む(石炭上げと言った)のに4人の生徒が大きなスコップを使って約15分で積み終えていたのだが、次第に長い時間がかかるようになり、6人がかりでも1時間かかってようやく終わるほどに体力は劣化した。食道からは、時折り、ブドウ糖の配給があったが、焼け石に水の状態であった。そうこうする内に、全員が下痢がひどくなり、一層体力は落ちてしまった。ある日、かつて住んでいた旧寮まで荷物を取りにゆくことになり、釜利谷の宿舎を朝の8時頃出発したが、足がもつれて先に進めず、200メートルほど歩いては立ち止まり、しゃがみこんで休み、それを繰り返しながら、進んで金沢文庫の旧寮に着いたのは、昼過ぎとなった。寮で自分達の荷物をトラックに積み、上乗りをして釜利谷の宿舎に帰ったのは日暮れ時になっていた。よく太平洋戦争で南方のガダルカナル島の戦闘で、上陸した日本陸軍の精鋭が相次ぐ、爆撃で、補給を断たれ、爆薬も食料も尽き、全員が栄養失調になり、銃剣を持つ力も無くなり夢遊病者のようになり、ジャングルを逃げ回りながらばたばたと倒れて死んでいった話を聞いたが、私達の6月23日から8月15日の終戦の日までの状態はほぼそれに近い状態であった。座ると、尾てい骨が床に当たり痛くて、まともに座れず、絶えず襲ってくる下痢に悩まされた日々のことを思い出すと、よくも生きてこられたものだと思う。人はこのようにいったん大きな災害で食料が無くなると、日常の生活をまともに続けることが困難になり、たった2、3週間の内に体力が急速に衰えてしまい、正常な行動が出来なくなってしまう。この事を十分に理解して欲しい。また、そのような時、急に食料が手に入り、飢えのあまり夢中で腹一杯食べようものなら、一辺に死んでしまう危険があることも知っておくべきである。こうした折には、まず重湯のような流動食を少しずつ摂取して、次第に濃くしながら2, 3週間かけてゆっくりと普通食に戻す事が大切なのである。 にほんブログ村

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