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カシアス

昔話 

2018年05月27日 ナビトモブログ記事
テーマ:旅の者(新潟・東京・姫路)

幼稚園に入る前多分4歳だったと思うが、
愛媛県宇和島市の母方の実家に
1人で預けられたことがあった。

母に連れられて東京駅から
夜行の準急瀬戸に乗ったのは夕方6時頃だったと思う。
当時は東海道も電化前だったから蒸気機関車が、
葡萄色の客車を引っ張っていた。
4人がけのボックスシートの片側に
母と並んで窓側に座ると、やがて静かに動き出した。

駅弁を食べるうちに外が暗くなり、
いつの間にか眠ったが、
夜中に目が覚めると自分はシートに横になっており、
端の方で母が窮屈そうに座っているのを見て
申し訳ないと思いつつも、
そのまま再び眠ってしまった。

夜汽車はひたすら西に向かい、
やがて夜が明けて明るくなる頃、
瀬戸内海の宇野港に到着した。
汽車を降り母に手を引かれて
下を向いて歩いているうちに、
いつの間にか高松に向かう連絡船に乗っていた。
殆ど揺れる事もなく静かに進み、高松に着くと、
今度は予讃線に乗り、再び一路西に向かう。
途中、松山を過ぎるときに、
ここはお父さんの実家だと言われたが、
何故寄らないのか不思議だったが、
口には出さなかった。

更に数時間後、無事終点の宇和島に着き、
祖父の家に着いたときは夜の10時頃だったと思う。
東京から丸一日以上かかったことになる。
お風呂に入って直ぐに寝たが、
あくる朝起きると、既に母がいない。
朝早く発って東京に戻ったとのこと。

宇和島には2週間いた。
祖父は、倉庫、ホテル、真珠の養殖などの事業を
していたが、4人の娘は、全員嫁に行き、
祖母と2人で住んでいたから、
些か寂しかったかもしれない。

祖父が夕方帰宅し、酒と食事を終えると、
毎晩客が来て、花札をしていた。
今思えば、何がしかを賭けていたとは思うが、
それほど熱くはなっていなかったから、
さしたるものではなかったのだろう。

祖父や客の面倒は祖母が見ていたので、
私の方の食事その他もろもろは、
住み込みのお手伝いさんが担当していた。
年は20代半ば、気の利く優しいお姉さんだったが、
役目柄当たり前なのかもしれない。
当時、私はおとなしく内に篭り方で、
多少のことは我慢するから、
扱いやすかったかとは思う。

2週間ほどたったある日、
母が迎えに来て東京に戻されたが、
何故姉が一緒でなかったのか、
何故1人で2週間も預けられたのか、
何らかの事情があったのだろうが、
何故か母には訊けなかった。



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従弟が

カシアスさん

叔母のところに男の子が2人おり、
弟(私の同年)が祖父の名前を継ぎました。
事業も継ぐ・・・予定だったのかもしれません。
従弟は一見のんびりとした性格ですが、
東大の宇宙航空研を出て最年少博士になりました。
民間会社に就職し、それなりの地位になり、
今も現役です。
偶に・・・一献交わします。

2018/05/27 17:30:29

多分、

さん

 女の子を嫁にやる条件として「男の子が生まれたら、養子にして戻す」という約束があったのではないのでしょうか?

で、カシアスさんを御泊り鑑定の旅に母上がだしてみた、、、。

 でも、よく小さい頃のことを覚えてらっしゃいますね、、、。

2018/05/27 13:28:13

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