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「日中戦争の中の青春」抜粋 

2018年02月10日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

兄が書いたたくさんの文章を、私が整理して、河合妙子さん(ペンネーム山上郁海)がホームページに作り上げてくださった「日中戦争の中の青春」からほんの一部を紹介させていただきます。




日中戦争の中の青春』・・・「動物の思い出」から前半割愛して途中から載せます。満州事変(1931〜)が始まった頃、千葉県四街道の歩兵聯隊内に『軍犬班』が発足した。そのとき頼まれて私の父は、訓練していたエアデールテリアを献納した。イギリス軍に倣ってエアデールテリアを採用するか、ドイツやアメリカに倣ってシェパードにするか試行錯誤の末、頭脳のエアデールより体力のシェパードに、軍は決定したようだった。訓練を受けて戦場に渡り各部隊本部の警備についた犬たちは兵隊達のアイドルでもあった。日本の軍服以外の服装をした者には激しく吠えかかるので、中国人には「日本軍は狼を飼っている」と恐れられていた。『伝書鳩』も、軍の組織において大事な通信手段の役目を果たした。ぼくが小学生の頃、近くの練兵場に『軍鳩班』部隊が訓練に来た。トレーラー式の鳩舎の横にテントを張り、10名ぐらいが野営しながら鳩を訓練していた。近くで見ていると、「坊や、おいで」と呼ばれ、遊ばせてもらったものだ。満州事変以前の、のんびりした時代のことである。それらの軍用動物達がどうなったか直接見る機会は少なかったが、聞かされたのは悲しい話ばかりだった。私の勤務した陸軍特務機関には、兵役を現地除隊した元下士官が数名いた。彼らは、南京攻略、徐州会戦、修水渡河作戦などを経験した歴戦の兵士達で、いろいろ話をしてくれた。体が大きいだけに、馬は弾丸の当たる率も高く、戦死した軍馬は多かった。その場合、たてがみを切って持ちかえり供養したと言う。泥濘に脚を取られた馬が、もがくうちに、どうにもならなくなって、放置せざるを得なかったと打ち明けてくれた元下士官もいた。「置き去りにされた馬の悲しいいななきが耳に残る」と泣いていた。 戦後再会したある先輩は、敗戦直前の昭和20年になってから、悲惨な運命に翻弄された。若妻と生後2ヶ月の乳児を残して、中国で現地召集されたのだ。彼は河南省の開封から、ひとり1頭づつ馬のくつわを取り、徒歩でひと月かけて漢口に着いたところで終戦となった。食糧が無くなり、苦労を共にした馬を食べざるを得なかったと言う。妻子を満州の妹の家に預けていたが、生きて再び会うことも叶わなかったそうだ。戦争がもう少し早く終っていたら、どれほどの数の人や動物が、このような悲惨な運命に遭わずに済んだことだろう。 戦後、南京に残留した私は昭和20年12月、親しかった三石大尉が旧官舎にいると知り、久々に訪ねた。話に夢中になり気づくと夕方になっていた。「食事をしていけ」と誘われ、敗戦以来食べたことのないご馳走を振舞われた。当番兵は大変料理が上手であった。「そのソテー旨かっただろう。何の肉だと思う?」と三石大尉。「ひな鶏ですか?」「鳩だよ、伝書鳩。中国側は要らないと言うから、食べることにしたんだ。」 ぼくはなんとも複雑な気持ちになったものだ。  三石大尉の口利きで、私も中国軍に留用という形で残留した。中国陸軍総司令部に所属する日本人8名の独立機関だった。捕虜ではなく職員として、特別待遇を受けていた。                     翌21年春、中国軍幹部が、シェパードを1頭連れて来て、言った。「日本の軍用犬だが、一向になつかず手におえない。引き渡すから受け取ってくれ」一目見て、驚いた。皮膚病で赤裸。毛はいくらも残っておらず、体中を蚤が歩きまわっていて、衰弱が激しい。中野学校出身のS中尉は獣医だが、一見して決断した。「手のつけようが無い。早く安楽死させてやろう」犬は、それでも久々に日本語を聞いて、体をゆすって喜んでいた。どうやって苦しませずに安楽死させるかを相談したが、方法はひとつ。電気ショック。少々電気に詳しい私が、引きうけざるを得なかった。翌朝、裸電線を首と後足に巻きつけて、220ボルトの電流を流した。瞬時に呼吸も心臓も止まった。庭に掘った穴に葬ったが、哀れでならない最期だった。中国人に吠えかかる事を使命とされてきた軍用犬が、敗戦で中国人に引渡された。犬の運命は激変していた。わけもわからずに、苦しんだことであろう。 彼にとって中国人は敵でしかなく、なつくわけにはいかなかった。彼は半年あまり、ひとりで中国と戦っていたのだ。あの時命を助けたとしても、引き揚げ船に乗れない以上、日本軍に忠実すぎたこの犬が中国で生きていく道などなかった。戦争は人間だけでなく、多くの馬や犬や鳩までも悲しい死に追いやった。私はこの現実を自分の体験から、思い知らされたのであった。 戦争だけは二度と繰り返したくない。以上私の兄の体験談です。

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