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安芸福原城(鈴尾城)跡 

2011年03月07日 外部ブログ記事
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安芸福原氏

毛利元春安芸毛利氏1341〜1381当主(吉川元春とは別人)の5男、広世は
備後国信敷荘の長井氏の養子となりました。

備後信敷荘の領主・長井氏六代となりましたが安芸吉田へと戻り
永徳元年(1381)広世は父、元春より安芸国内部荘・福原の地を知行され、

この地に鈴尾城を構え福原を名字としました。
その後代々福原氏の居城として使用されます。


明応6年(1497)に毛利元就が生まれたのも、この鈴尾城であったと言われています。

福原氏は毛利氏の重臣として活躍しますが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの敗北の結果、
毛利氏の防長移封に従って廃城となりました。

福原氏は広俊の名乗りが多くかなりややこしいです。

毛利→長井氏六代・福原広世 安芸福原氏初代 福原城築城 
      
      七代  朝広
      八代  広俊・・娘が弘元の妻となり元就を生む。
      九代  貞俊
      十代  広俊・・天文9年(1540年)、出雲の尼子氏が安芸に侵攻してきた際には、
              子の貞俊を郡山城に派遣し、自身は居城である鈴尾城に篭城     
     十一代  貞俊
     十二代  元俊
     十三代  広俊・・輝元に仕え、吉川広家と共に家中で重きをなし朝鮮出兵に力を発揮した。              関ヶ原の戦いで西軍に味方した毛利氏の断絶を防ぐため、
              広家と共に徳川家康に内通。毛利氏が減封され広俊も本領を維持できず、              以後は長門吉敷の地を領しました
     
     十四代  元俊・・宇部の地に国替えとなり、代々この地を領した
     十五代  広俊  以降福原家は代々長州藩永代家老・宇部領主を務め明治を迎えます   

     二十五代 元?(もとたけ)福島越後は幕末の禁門の変、長州征伐の責任を取るため
             国司信濃・益田右衛門介と共に自害しました。



全景
郡山城から南西方約6キロ
盆地内に張り出しているので展望が開けています。


登城口
鹿よけのフェンスが巡らされています。


説明板


階段を5.6分登ると居館跡に着きます。

居館跡説明

居館跡。
鹿の糞多数


毛利元就誕生の地の碑


ここからはジグザグな階段です。



井の段へ降りる道があります。


井戸。
説明板の通り6Mの深さはありそうでした。
水は無いようで覗き込むと白い石の様なものが見えました。
さすがにフラッシュたいてまで撮ろうとは思いませんでした。


井戸の段から本丸を見上げる。


本丸に到着


本丸説明板


展望がいいです。
郡山城方面


このあたりは毛利の一族、譜代の城跡が多数あります。
付近の山々はほとんど城跡です。

手前の小山が桂城、その奥方に下峠城、星ヶ城
亀山城、槙ヶ城などがあります。


せっかくの図が良く見えなくて残念。


登る時にはなかった足跡が・
鹿もうろうろしているようです。

         

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