メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

Side Discussion

風の音にぞおどろかれぬる 

2016年08月27日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

毎日が日曜日ですが、今日は今月最後の土曜日。

朝起きてぐずぐずして時計を見ると針が随分と進んでいた。


7時になる前に家を出た。


風が秋を運んでいる。


目にはさやかに見えねども、、、、、、、、、。


空は曇天。


犬の習性みたいに、散歩のテリトリーが決まってしまっている。


今日はいつも向かう方向に背を向けて歩くことにした。


我が家は、東京の密集地のど真ん中。


我が家の家の周りは細い路地が入り組んでいる。



画面の中央少し左に電線に重なって見えるのが我が防衛省の生命線タワー。


車一台がやっと通れる道、路地、私道でややこしい。


小さい家がひしめいている。


同じ新宿区でも、ピアノの先生のお住まいは道路も広く一軒の専有面積が広い。


下落合だが、堂々たる邸宅街が広がっていて、自ずと住民の階級差が出ている。




新宿区と言えば喧騒と高層ビルの新宿もあれば、我が家のような住宅密集地もある。


多くの方がご存知ない。


店がなく不便だけれど複数の地下鉄の駅に近く便利というのが利点かなあ。


地名に坂がつくから、坂が多い。



この坂は、鬱蒼と茂る森の寂しさから幽霊が出ると噂され幽霊坂と言う別名ある。



ここは公園なので車椅子用の道が設えてある。


坂、階段が多く、年寄りには難儀な街。


今日最後に行った公園は、いわれのある公園。


言われがあれどもご存知あるめえ。(More参照)




学生時代、尊敬していたイギリス文学者の邸宅跡地です。







地域のボランティアに寄って公園が清掃されている。


家に帰り着いてやっと2千数百歩。


もうすこし歩いた方が良いが、足が帰りたがっていた。


秋はもうそこまで来ている。


昨日の日中の悪魔の日照りは嘘のようだ。


と言うものの、まだまだ残暑は居残りそう。


あとすこし、


体調を整えよう。




Wikipediaより
当時95歳の斎藤勇は、息子の斎藤真(61歳)たちとともに東京都新宿区南榎町の自宅で同居生活を送っていた[1]。真の息子X(27歳)は千葉県旭市の海上寮療養院で統合失調症と診断され入院していたが、この日は自宅で過ごしていた[1]。真夫妻は名古屋に出張中であった[5]。Xは1982年7月3日から何も食べず様子がおかしくなった[1]。家政婦の連絡を受けて急遽帰宅した母親は心配し、7月4日、海上寮療養院に電話で相談したが[1]、病院からは、とにかく刺激しないように、詳しい様子をさらに観察して知らせるようにとの指示を受けた[5]。するとXは一時的に平静を取り戻したため、母親は7月4日の午後12時半すぎ、海上寮療養院に再び電話して「様子を見ているといくらかよくなっているようですので、父親が名古屋から帰ってきたら相談して、改めてもう一度連絡します」と伝えた[5]。ところが午後になるとXは興奮状態に陥り、英語で意味不明なことをわめき出し、午後1時20分頃、台所から刃渡り18センチの柳刃包丁とチーズ用ナイフを持ち出し、祖父の勇の書斎に侵入した[5]。Xは母親や家政婦の制止を聞かず、勇に本や新聞を投げつけ、やがて金属製の置時計で勇の頭部を殴打しはじめた[5]。このとき、勇は頭部に15ヶ所、顔面に17ヶ所、前顎部に8ヶ所の挫創を負っている[1]。やがてXは勇の眉間に柳刃包丁を9センチ突き立てた[1]。勇は断末魔の叫びを上げて絶命した[1]。死因は頭部顔面打撲による外傷性くも膜下出血であった[1]。また、母親は1ヶ月の重傷を負い、家政婦も負傷している[5]。近所の住民の通報で警視庁機動捜査隊と牛込署員が駆けつけたところ、Xは家政婦の部屋の押し入れに隠れていた[6]。警視庁機動捜査隊赤羽分駐所主任の警部補(54歳)はXの襲撃を受け、顔などをナイフで刺されて昏倒した(のち搬送先の病院で死亡)[6]。最終的に午後2時15分頃、Xは他の捜査員に傘でナイフを叩き落とされ逮捕された[6]。Xは精神鑑定の結果、心神喪失が認められ、10月12日に不起訴処分となった[7]。この事件について、北山茂夫は「いつ身辺に何がおこるか分らぬ。勇長老は九十五才にして孫の毒手に命を失うとは、百年の光芒も凶刃のきらめきに失われるとは」と嘆いた[8]。また、斎藤真は「息子の教育は完全に失敗でした」と語った[9]。なお事件当時、現場の前に住んでいたのが村崎百郎であった[10]。

犯人のプロフィール編集Xは1978年春に慶應義塾大学法学部を卒業[6]。同年秋から米国のプリンストン大学に聴講生として留学し、1979年に帰国、そのまま慶應義塾大学大学院に進んだが、1年足らずで中退[6]。1980年4月、宗教への関心から東京神学大学に学士入学するも、同年秋に中退した[6]。1981年1月に再び渡米したが、菜食主義の行き過ぎが原因で栄養失調に陥り、同年5月に日本へ帰国した[6]。この間、キリスト教の異端の宗派や神秘学に傾倒し、日本語を話さなくなり、日常会話は英語だけで済ますなど奇矯な言動が目立っていた[6]。事件後、Xの自室からは、綴りを逆さにした英語の文章で「悪魔を殺さねばならぬ」(7月1日付)、「ゾロアスター・アーミンマ。地球の人類は悪魔だ。私は、悪魔を殺せとの指令を神から受けた」(7月4日付)などと書かれた日記が発見された[6]。斎藤一族からは東大卒の東大教授が3人輩出していたため、犯行の動機をXの劣等感に求める報道が多かったが[11][12][6]、赤塚行雄はこの分析に疑念を呈している[13]。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR





掲載されている画像

    もっと見る

上部へ