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ハッピーな老い支度の勧めという講義___公民館便りの原稿 

2016年01月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

今日の高齢大学は、行政書士、社会福祉士、ファイナンシャルプランナー終活カウンセラーその他諸々の資格を持つ女性講師の方で、お仕事の宣伝でもあるのですが、分かりやすい終活の説明をしてくださいました。
私はエンディングノートを買いました。以前買ったのが一冊あるけど二人なので、別のも良いかなと。2冊揃ったからぼちぼち書かなくっちゃ。


公民館便りがでていて、私の文章も載っていたので、みなさんから声をかけられました。
長すぎたのでカットされた部分もかなりありますが、ここには原文を載せて、昔の写真も付け加えてみます。

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幼い日の思い出

両親は、明治から大正にかけて、サンフランシスコで十数年暮らしました。
孤児だった父が、海を渡って何で成功したのか謎ですが、カメラ好きで、明治40年前後の写真がたくさん残っています。
写真の中の母は、ふっくらした袖のブラウスに、襞の沢山ある、ロングスカートを穿いていますが、日本人に合う既製服がないので、全部自分のミシンで仕立てたものだそうです。

二人は大正3年に帰国して、東京の中心に住みました。
それ以後は父までもが純和装でした。洋服姿の父を見た事がありません。
着物しか着なくなっても、我が家には和洋折衷の部分が多くありました。

関東大震災の被害は地盤がよくて軽微でしたが、隣町まで焼け野原になったので、郊外に移転を考えたようです。

東京府下荏原郡目黒町大字宿山字東山(現目黒区東山)、高台なのに良い水の出る土地に、電鉄会社が造成した宅地を買って、大正14年に家を建てました。
外観は洋館ですが、ふかふかの絨毯を敷いた洋間は、ダイニングとパーラー(両親はそう呼んでいました)だけで、他の部屋は全部畳でした。縁側はなく窓は洋風なのに、床の間押入れのある和室という奇妙な家でした。

私は昭和6年にこの家で、11年ぶりに生まれた子供で、一人娘ですから、54歳になっていた父に溺愛されました。母は45歳でした。

ダイニングには、キッチンから、料理を出せるカウンターまで作っておきながら、なぜか父は北側の6畳間を茶の間にして、一家はちゃぶ台で食事をしていました。
ダイニングと名付けた日当たりの良い大きな部屋は、リビング兼書斎になり、家で仕事をしていた父は、大きなデスクに向かっていて、同じ室内で私が母と遊んでいることを、楽しんでいました。
3人の兄がいて6人の家族は大きなちゃぶ台を囲んで食事をしましたが、気難しい父は、食事には関心が薄く、団欒なんて考えもしない、家族とどう向き合えば良いのか解らない人でした。孤児として育ったからでしょう。
なので茶の間の楽しい思い出はありません。私は極めて食が細かったので、いつまでもちゃぶ台に座らされていたものです。

お正月には、ちゃんとお屠蘇もありましたが、全員下戸なので他にお酒は全くなし。
お雑煮は、すまし汁に、焼いた切り餅、鶏肉と、なるとと、筍と、里芋と、三つ葉が、必ず入っていました。おせちはほとんど手作りで、お煮しめが好きでした。

親戚は母の妹一家だけ。仕事の客以外に親しい友も無かったようです。お正月に人の集まる家では無かったので、お年玉なんて知りませんでした。お金に触ったこともなかったのです。

オモチャは沢山ありました。父の仕事の付き合いで、人形の吉徳の一族の方が毎年、市松人形だの羽子板だのを、お土産に下さいました。アメリカに住む叔母さん(父の妹)から送られた、大きな西洋人形が幾つもあって、でも一緒に遊ぶ友達はいませんでした。
新興住宅地なので近所付き合いも1軒だけ、近所に子供はほとんどいませんから、私は母や、ねえやのみよちゃんに遊んで貰っていたのです。

叔母さんと従姉のよう子ちゃんが来て遊んで貰えることもあり、母と大塚の叔母さんの家に行くこともありました。
父は家に引きこもっていましたが、私は母と中目黒に買い物に行くのが楽しみでした。たまに、母と日本橋や渋谷のデパートに行って屋上庭園で遊ぶのも好きでした。
デパートの大食堂では、ウエイトレスに紙のエプロンを掛けてもらって、お子様ランチを食べ、チキンライスの上の旗も紙のエプロンも持って帰る子でした。


そんな暮らしは、7歳の秋に一変しました。
ある朝父は起きてこなかったのです。61歳の突然死でした。

私たちは上目黒の小さな家に引っ越して、昭和の戦争に翻弄されるようになって行きました。
でも小さな家の近所には子供が沢山いて、生まれて初めてみんなとわいわい遊べるようになったのです。お転婆になったのはその頃からでした。

お正月に路地で羽根つきをするのが大好きになったのも、それからのことでした。
子供らしい遊びが出来て楽しくなったけれど、間も無く戦争が激しくなり、戦後にはインフレで、父の遺産を全て失うことになりました。
戦争は、私から教育を受けるチャンスまで奪ったのでした。

でも、70歳から通信制の中学校に入り、73歳で卒業したので、学校の楽しさは味わうことができました。
今は町の高齢大学に通い、また、民話の語り手にもなって、人生で一番楽しい時を過ごしております。
70代半ばでこの町に移住して本当に良かったです。
終わりよければ全て良しですね。有難いことだと思っています 。 ? ?

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明治40年頃サンフランシスコ元市長邸の留守番を頼まれた両親が、自分の大型カメラを持ち込んで、撮りまくった"自撮り"写真です。

父が本の陰でゴムボールを押して、シャッターを切っています。

下の写真では、父が足で踏んでシャッターを切っています。

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