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永遠の謎 我が祖父 我が父 

2016年01月21日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

昨日の記事に、明治40年ごろの写真を載せたら、もっと書きたくなりました。以前書いたことではありますが、父と祖父は謎だらけの人物なのです。大人になってから会って見たかった。話を聞きたかった。
兄妹の中で、会ったこともない祖父に興味津々なのは私だけです。何故か祖父が慕わしいのです。
というわけで、また書きます。


祖父は17歳ぐらいの時筑波山で挙兵した天狗党に加わり、途中、和田峠の戦いあたりで負傷したのか、病気になったか、天狗党千人の隊列から脱落したため、結果生き延びたのです。
脱落しないで最後まで進んだなら、天狗党の武士は全員処刑される運命でしたから。明治になる4年前のことです。

祖父は天狗党から脱落して甲州にに落ち延びます。名前も家柄も全て秘密にして(水戸藩の由緒ある家柄としか息子にも言わなかった)農家の婿になりました。
が、どうも理想を追って家を傾けてしまったようです。明治維新になって、水戸の人間は不満が大きかった筈。新政府を批判したくて友人と二人で新聞を始めたのです。明治のジャーナリストの草分けだったようですが、大酒を飲んで40歳そこそこで明治20年頃急死。その後友人は新たな名前で新聞社を作り、今に続く有名紙になっています。
父は10歳で父親と死別、15歳で母親とも死別。妹二人は、機織りとして売り飛ばされてしまい、自分は東京に飛び出して書生になります。
一橋大学の前身、商科大学?のまた前身、東京高等商業を卒業するまで、私の母の叔母の家で書生をしていました。
母の叔母は子供の時疱瘡に罹りうす痘痕が残ったため、一生独身で小学校の首席訓導(教頭先生)を務める傍、大きな婦人会の会長でした。

父はまだ書生の身であった頃、故郷に妹を取り戻しに行きました。孤児になって、8年がたっていました。上の妹は既に亡くなっていて、6歳で機織り娘として売り飛ばされてしまった下の妹と再会します。妹は卵を食べたこともないという状態で働かされていましたが、戸籍上養女にされてしまっていて、返してくれません。
私の父は、当時23歳。14歳になっていた妹を夜中に連れ出します。追っ手がかかるといけないので、友達が峠で抜き身を引っさげて立っていてくれたそうですが、兄妹は無事に東京に着き、妹を私の母の家に預け、やがて女学校の先生宅に預けて学校に通わせてもらいました。
周りの大人たちが、うまく交渉して、妹の養子縁組を解消し、元の戸籍に戻してくれたようです。

父は、卒業すると貿易商を目指して、サンフランシスコに渡り、何で成功したのか全く不思議なのですが、数年後に嫁をもらいに戻ります。
当時母は、東京府立第二高等女学校(現・竹早高校)の一期生でしたが、卒業を待たず16歳ぐらいで結婚、父とともにサンフランシスコに渡りました。当時は船便ですから横浜から十数日かかったそうです。

中国人のコックを雇って食堂を経営したこともあるそうですが、何で儲けたのか、母も詳しく語りませんでした。
父は「人たらし」のところがあって、書生当時もみんなに可愛がられ、サンフランシスコでは、元市長さんの雇い人でもないのに、バカンスの間、邸宅の留守番を頼まれました。
そこで自分の大きなカメラを持ち込んで、大邸宅の主のような顔をして、写真を撮りまくったのです。

元市長さんの写真もあります。

市長さんの息子と娘。

市長さんの奥様は病気らしく、美人の看護婦さんが付いていました。



アメリカで商売をしていた父は、なんと占星術師に転身します。大正3年に帰国するとr、株式取引所に近い茅場町に住んで株式の予言を始めました。予言が当たって、大儲けさせた人たち数人が、後年まで義理堅く訪ねてきて下さったものです。
大暴落を予言して、「早く売ってきなさい」と追い立てたら、暴落前に売り逃げ出来て、助けられた人もかなりいたそうです。そうして麻布に家を建て、鎌倉に別荘を買い、関東大震災の被害も少なくて済み、目黒に家を建てて、移転したのでした。麻布時代にラジオ放送が始まり、最初から聴いていました。目黒の家のラジオの聴取許可証なる紙切れが残っています。ラジオのそばに許可証を置いて置かなければならなかったそうです。

その後の大不況、株は暴落して大変だったとか、或る銀行に取り付け騒ぎが起きた時、父は「大丈夫あの銀行は潰れない」と予言して、引き下ろしに行かなかったら、後日銀行からお礼に来られたそうです。
みんなが預金を引き出しに押しかけた時、下ろさなかったので、たいそう有り難がられたそうですが、自分が下ろさなかっただけでなく、ほかの預金者にも働きかけたのかもしれません。

しかし昭和初期の大恐慌、予言も追いつかなくなったのでしょう、私の幼い頃、父は引きこもっていました。自身が運の悪い時期にあり、次に運気が向上するのを待つと言っていたそうですが、落ち目の最中61歳で突然死。家族は屋敷を売るしかありませんでした。

祖父も父も波乱万丈、一風変わった人物でした。だから、私も、娘も、息子も、変わったことをやりたがるのでしょうね。平凡にしていたことがありませんもの。やりたがることが普通じゃないと言われるけれど、当人には極めて普通のことなんです。幕末の志士の血が流れているってことなのでしょうか。

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