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都わすれの「「ベガルタ応援日記」

今日は「終戦記念日」 

2015年08月15日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し


今日は昨日と違ってのんびりしている暇がなく、松本山雅FCの続きを書こうと思いながら、まだ書いてない 昨日の朝から待った菩提寺の住職は、5時5分過ぎだったよ 僅か前に従姉弟が来てくれてお茶を出したばかり・・リビングから前の路地を通る和尚さんが見えたらしく、「来た・・!」って言うなり腰を上げて玄関で挨拶・・しかし住職のおつとめは「5分」とかからないで、風のように消えちゃった 私はスマホを持たずこれまでガラケーだったが、最近電池が無くなるのが早く5時半頃に家を出てauまで行ったら、やはりスマホを勧められた 携帯の機種を替えても料金は殆ど差がないようで、それではスマホにしてみますかって言っときは7時に近かった アドレス帳など移行するのに、1時間くらいかかると言い後日出直しすることにして今しがた帰宅 PCを起動したらyahooのニュースに、結婚20日で夫は出征・・戦士の記事があり、読みながら涙が流れて・・今日は70回目の終戦記念日でしたね 私は仙台空襲の時に「防空壕に・・」と、母に聞かされはしたが1歳2ヶ月で戦争の記憶は全く無い 私が生まれた時に父は出征中で、私の名前は母の妹・・叔母さんが付けてくれたらしい そんなことから通信制高校を卒業の時まで、私は自分の名前を漢字で書いていた 絵手紙などでゴム印を押したりしているから、これまでも名前は公になっていましたね 戸籍は「しづ子」ですが漢字が書ける頃から、私は「静子」って書いていたが両親は何も言わなかったが、無知なのか分からなかったのか  高校の卒業証書に書くためだったのか、「戸籍謄本(抄本)」の提出を求められて、初めて自分が書いていたのは間違いだったと・・だから高校までの友達からの手紙などには「静子様」とある 幸いにも父は生きて日本に帰った(確かシベリアとか聞いたような)母の弟・・叔父さんも戦死しているが、勿論会ったこともない人でこれまであまり考えたこともなかった 私たちの学年は父親が出征中と言うことで、極端に人数が少なく・・妹は戦後の第一次ベビーブームの子たちです そう・・夫は28歳で交通事故死だったが、夫の父親は同じ28歳で戦死でしたが、義母は多くを語らなかった 子供がいないところに夫の父親は「養子」になり、義母は養子になった義父に嫁いだ 息子の夫(私の)はいたが舅や姑は、全くの他人・・血がつながっているのは我が子一人 何年後だったのか分からないが義母は、そのまま留まって新たに養子を迎えて義弟や義妹が生まれた 一言「再婚して4人」でも、「みんなが他人」だった・・としか言わなかったが、義母の苦労はいかばかりだったか・・私は全く聞いてなかったが義母が亡くなる4日前だから、5年前の昨日だったか・・お見舞いに行った(自宅で訪問介護を受けていた)息子夫婦に、私が一度も聞いたことがなかったことを色々と話してくれたと・・亡き義父は戦地から一度帰り息子(我が夫)を、一度だけ抱いたまま二度と帰らず「戦死」の通知が届いたと それから4日後の午後4時近くに義母は、91歳半の生涯を閉じた 12日に墓石が倒れたままのお墓に墓参に行ったら、いつも義母が手伝いだったり行っていたお宅のお嫁さんに会って声をかけていただいた 今は週2で接骨院へ通うが勤めを辞めてからは、週2で義母宅に通っていた あの日会って話したら「今日来るんだ・・」とか、いつも待っていたんよって言われて涙がこぼれた 実母が亡くなってから10年余り、私にとってはまったく実母と変わりなかった 口に出して言う人じゃなかったから、「苦労した」など聞いたことはなかったが、義母と比べたら私など来るした分に入らないと思う 義母はあの震災の前年8月18日に亡くなり、もっともっと長生きして欲しいと思ったが、震災後は自宅の土台まで無くなったのだから、辛い思いをしなくて良かったと今は思う もうすぐ6回忌・・毎月18日に、今も墓地に義母を訪ね「また来月来るね」って帰る 先日の新聞には戦後はあの震災どころじゃなかったとあったよ また「禁止タグあり」で保存できなかった ランキングが低迷しています・・よろしくお願い致します〜!ブログランキングに参加中ですので、下のバナーをクリックお願い致しますo(^▽^)oにほんブログ村 いつも応援ありがとうございます

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