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藤圭子と「お母さんに会いたい」と歌った宇多田ヒカル 

2013年08月25日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し






十五、十六、十七と
私の人生暗かった

藤圭子の名作「圭子の夢は夜ひらく」のワンフレーズだが、このフレーズがぼく
には忘れられない。藤圭子という、当時無表情な美少女が歌うと、何とも言い難
い哀愁があったものだ。

『人生、暗かった』と歌いながらも、まだ15〜17歳と期間を限定しているところに、
かすかな救いがある。そして、この詞から、次の十八からの人生はどうだったの
か、もしくはどうなるかを想像させる・・・・・・何かドラマの続きでも夢見させてくれる
ような刺激を持つ歌詞だ。

その藤圭子が自殺した。
8月22日の朝、東京・新宿区の高層マンション前の路上で頭を強く打った状態で
亡くなっているのが発見された。

藤圭子が亡くなった現場のリポートによると、以前は黒髪が印象的だったが、
白髪になってすっかりやせ細り、以前とは別人のような容姿になってしまったと
いう。そのため、30代後半の知人男性と約6年同居していたにもかかわらず、
藤圭子に気づいていた住民はほとんどいなかったという。

その同居していた30代後半の知人男性も、藤圭子の心の痛みを救うことはで
きなかったのか。
単純に考えると、宇多田ヒカルという大活躍の天才シンガーソングライターの
母親なのだから、幸せの中に居てもいいように思えるのだが、逆に心の病を抱
えてしまったようだ。

藤圭子と照實氏が繰り返した結婚と離婚は計6、7回とされる。
娘の宇多田ヒカルは、2006年の6月にテレビ番組で両親について、「六回も
離婚と結婚を繰り返して、ワケ分かんないですよ」と語っていた。

宇多田ヒカルに「Be My Last」(05年発表)という曲がある。
その中で「母さんどうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃならない日が
くるの?」と、何度も離婚する藤さんに訴えるように歌っている。

そんな、つらく寂しい思いは幼い頃からだった。
ニューヨークでの生活を安定させるため、日本で場末のキャバレーなど地方
回りをして稼ぐ藤さんは、娘の知らぬ間に仕事へ出掛けていた。宇多田は
「Letters」(02年発表)で「いつも置き手紙 ああ夢の中でも 電話越しでも
 ああ声を聞きたいよ」と歌っているという。

宇多田の休業前ラストアルバムに収録されている「嵐の女神」(10年発表)
は、タイトルそのものが藤圭子だ。

嵐の女神 あなたには敵(かな)わない
と歌い始め
お母さんに会いたい
分かり合えるのも 生きていればこそ 今なら言えるよ ほんとのありがとう
と、まるで今回のことが起こるのを恐れていたかのような歌詞もある。

宇多田の周辺は「彼女はママのことが大好きで、歌手としても最も尊敬して
いた」と語った。

参照:宇多田ヒカル「お母さんに会いたい」幼い頃から寂しさ

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