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大寧寺 墓 

2013年05月09日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

              大寧寺 墓

 
 

上流
下流から
         
磐石橋を渡るとかつては山門がありました。
 

 

山門跡
 天正年間(一五七〇年代)毛利永代家老益田藤兼公(全鼎)が当寺十五世関翁殊門禅師に帰依し山門を寄進、のち寛永十七年野火によって焼失した山門は延宝五年(一六七七)に益田元尭公によって再建された。                   
   
桁行五間・梁行二間五尺・桧皮葺入母屋重層の荘厳な山門であったが明治以後藩潘の庇護も疎くなり維持困難を極め明治末期に倒壊し今日に至っている。
    基礎石のみ残っています。    




磐石橋下流の川端に姿見の池があります


 

                 かぶと掛けの岩

               姿見の池 井戸?
     首が映らない。       水が無いから

 
境内の墓
 大寧寺の境内墓地は、本堂横西側に位置し、段状とし た地形に数百基の石塔群が立ち並ぶ。          この墓地は大寧寺開創以来、大内氏から毛利氏へと継続的に墓地の形成が行われ、また大寧寺の寺格から墓地には大名家及び上級武士層の墓が立ち並ぶ壮大な墓地であったことが窺える。             
 
墓の形態も宝篋印塔・無縫塔・板牌・卵塔・笠塔婆・五輪塔・自然石等と沢山の形態があり、又、墓石の産地の遠くは岡山県の上質の御影石や萩石等それぞれ   
施主家によって競い合ったと思われる。         


 

    下のあたりは崩れていて、現在調査、復旧中です


上杉憲実(うえすぎ のりざね)の墓
関東管領を務め足利学校や金沢文庫を再興した事で名高い人物                           
憲実は出家し諸国遍歴の旅に出て京、九州にまで赴いきました。                            享徳元年(1452)には大内氏を頼って留まり、文正元年(1466)に大寧寺で死去

 
         萩藩重臣の墓も数多くあります
                            
      
看板に重臣達がこぞって分骨したと記されてあるとおり
益田、児玉、山内、乃美、宍戸、天野などそうそうたる
名が並んでいます。

        益田元祥の墓まであります。
 元は石見の国人ですが、非常に優秀な人物で
 毛利家に付き上月城の戦いから朝鮮の役などで    武功を上げました。
   行政手腕にも優れ、家康からも大名取立ての話も
   ありましたが固辞し、萩潘の家老となりました。

                   倒れてました

                      益田家の墓

                    長門豊川稲荷

   墓好きの人にはたまらない所です。
  土砂崩れで地面がゆるくなっているので
  ウロウロしていると恐ろしい目に会いそうです。

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