どんぐりと山猫の部屋

義母の25回忌法要にいってきました 

2010年05月06日 外部ブログ記事
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 国道200号線をくだり、筑豊と筑後をへだてる冷水峠の有料道路をつかわず峠越えで行くと、山間に山藤の花があわい紫色の花をさかせていました。峠の登りも下りも、その紫のスポットがいままで見たことのないほど目立ちます。
 つれあいの実家は最近まで夜須町と言いましたが、今では筑前町と変更されました。筑前といえば私の住んでいる黒崎も江戸時代は筑前に含まれますので、私にはしっくりとこない町名です。夜須という言葉は、万葉の時代からつづく地名なので残念な気がします。
 この法要の前日、私は図書館である調べ物をしていて、筑前国風土記を読んでいました。ふと思いついて、つれあいの実家のすぐそばにある「玉虫神社」のことが載っていないかと調べてみましたら、ありました。いわゆる産土神をまつる土着信仰の神社ということで、あの源平合戦で船の上の扇を射抜いたといわれる那須与一夫婦を祭っているということでした。また県の文化財にも指定されている36歌仙の額も飾られていて、つれあいの実家が代々守り続けていたこんないなかの社に、こんなものがあるのだろうと不思議でした。

 なぜこんなところに那須与一を祭ったのか不思議で調べてみましたら、那須与一は、12世紀から戦国時代まで黒崎の花尾山に城をかまえた豪族麻生氏がその子孫だということがわかりました。その麻生氏は江戸時代には黒田藩につかえたそうで、そんな関係でこの小さな神社に那須与一が祭られているのかもしれないというところまでたどり着きましたが、確かなことは今はもうわからないようです。

 江戸時代の黒崎宿に桜屋という脇本陣があり、代々宇都宮家が旅館を引き継いでいましたが、どうも、その宇都宮氏も、麻生氏の流れのようです。桜屋の御主人は勤皇の志士としても有名で、学問にすぐれ、黒崎に逗留した坂本竜馬や三条実見などとも交流したそうです。

 その麻生氏がかつて京都で皇族の娘に一目ぼれをして、側室として城に迎え、正室の悋気のいじめに自殺してしまったという紅梅姫伝説は、今も紅梅という地名に残されています。私が草取りをさせてもらっている公園の横の浄蓮寺には、その姫の怒りをしずめたという紅梅地蔵がいまでも祭られています。

 法事のあとのお食事のときに、わが故郷の黒崎とつれあいの実家との不思議な縁についてとりとめもない話をしました。残念ながら実家にはその事情を知る者はいませんでしたが、故人をしのびながら楽しいひと時を過ごすことができました。
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