自転車で物語散歩

南部せんべい考 

2011年12月25日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

山手と下町、海の手と川の手、を引き合いに出しながら、土地の区切り目が生活習慣の違いに通ずる、なんとなくそんなことにふれてきた。とおもっているのだが・・・。こんな生活感の相違を広げていくならば、泉麻人氏の『東京二十三区物語』のような東京都各区の区民性に触れてみたり、はたまた関東と関西や江戸っ子と浪速っ子を比較したり、いろいろと面白い日本人考察ができるであろう。が、残念ながら筆者にはそれほどの知識や取材力、それに創造力と文章表現力が備わっていない。なんて、嘆いていては話が進まない。ここはひとつ、エイヤーと気合を入れてフンドシを締めなおし、さあさあ、お立会いお立会い、とばかりに、南部せんべい考察なるものでお目を汚していただければうれしいかぎりだ。南部せんべい、ほとんどの人はご存知であろうが。念のため、下に写真を貼ってみた。写真は、通称ゴマせんべい(地域により塩せんべい)という。筆者にとって、南部せんべいとは、このゴマせんべいのみである。ピーナツが入った豆せんべい、抹茶、ストロベリー、などなどは南部せんべいもどきにすぎない。とくれば、なんだせんべいの素材こだわり講釈かとおもわれるのもしゃくなので、一言、自慢話を。筆者の幼少年期だが、母親は南部せんべいを手焼きして売っていた。内職のようなものだが、のちには、機械式のせんべい焼きに着手、東京へ卸をするようにもなった。むろん、一家総出のような家内生産であった。そんなこともあり、筆者の餓鬼時代を巡る走馬灯には、このせんべい焼きの風景がこびりついている。そして、筆者はたま〜にだが、南部せんべいを手作りしては楽しきせんべい少年時代をおもっては涙を流しているしだい。さて、本来のごませんべいは、丸く重い鉄製の型で焼かなくてはならないのだが、そんなものはもちあわせていない。そこで、フライパンで一工夫しながら、原価五円ほどで、まあ、それなりのものを味わっている。毎回のせんべい作り、細かいところで練りや焼きの技術が磨かれているようでうれしいものだ。※材料は小麦と塩、いりゴマの三つが基本。おっと、忘れるところであったが、筆者の生まれはわかりやすくいえば岩手県盛岡市である。古めかしくいうなれば、奥州は南部盛岡藩の盛岡となる。ちなみにだが、南部には兄弟藩の八戸藩、支藩の七戸藩がある。蛇足だが、筆者の父親系では祖父のころまでは南部八戸藩に居たとおもわれる。おそらくは、低収入の農作業従事者であったろう。マイルーツはともかく、至極当然のことだが、南部せんべいとは南部藩名物でなければならならない。ここで、今度は、産地のこだわりか、おいしいければどこの品物でもいいだろう、そんな声が聞こえそうである。しかし、ことは南部藩 VS 津軽藩にかかわる重大事。今、しばらくおつきあいのほどを。南部藩と聞いて、ああ、東北地方ね、さらに岩手県のあたりね、とピンとくる方はかなりの南部せんべい通である。しかし、ついでに、南部せんべい産地の免許皆伝をめざしてはいかがか。では、以下を伝授してみたい。【皆伝へのエピソード その一】筆者の兄嫁は弘前市の生まれだ。よって、筆者は高校一年のときに、はじめて弘前市を訪ねた。季節は新緑のころであったとおもう。そこで、まずは何が何でもここへ行かなくてはと弘前城をめざした。そしてその美しさに驚いた。まずは、天守に櫓があるではないか。石垣も周囲の堀と緑も整然とし、お殿様が住む風格にもわず、ウムムッツ、とうなったしだい。我が盛岡城(不来方城)はどうか。天守はおろか、櫓らしきものもなければ堀もない、悲しくも土台である石垣が残るのみ。城郭はどうして失くなった?弘前城も盛岡城も、明治政府により廃城となった。しかし、薩長軍に朝敵とされた四十一藩から弘前城を居城とした津軽藩は朝敵リストから外された。一方、南部藩は朝敵の最後の藩という烙印を押された。このへんの薩長のさじ加減の差が、同じ廃城でも弘前は手頃を加えられて城郭の現存率が高くなった。反対に盛岡城はボコボコに壊されていったのではないか。と、下衆の勘ぐりを深めているのだが・・・。【参考】宮武外骨著『府藩県制史』より明治政府内の「永久不滅の賞罰的県名」として、「早い段階から官軍側に付いた『忠勤藩』の藩名は県名にされて、官軍側に付かなかった『朝敵藩』や、官軍側に付くのが遅かった『曖昧藩』の藩名は、一つも県名には残っていない」【皆伝へのエピソード そのニ】現在の青森県の東半分(八戸藩を中心とした下北半島のある太平洋側)は、かつては南部藩の領地であった。津軽藩は西半分のみで、南部藩の三分の一程度の領土だった。しかし、廃藩置県で南部藩の東半分は青森に組み込まれてしまった。【参考】Wikipediaより「盛岡藩領と青森県」廃藩置県により、盛岡藩は岩手県だけではなく、青森県にも編入された。現在の青森県域については、江戸時代中期以降の盛岡藩領と八戸藩領が共存している。いわゆる「南部地方」と呼ばれる地域は、ほとんどが旧盛岡藩領である。また、下北地方も旧盛岡藩領であった。じつは、この土地の人間を無視した地図上の線引きが、禍根となっている。津軽藩は、もともとは南部藩から抜け駆けするようにしてできた藩だ。そこで、南部藩のものからみれば、津軽藩は実にけしからん輩であった。それが、さらに廃藩置県で南部は八戸を失った。これで、禍根が倍にも膨れた。よって、同じ青森県でも西半分はもとからの津軽藩(津軽衆)、東半分は南部藩(南部衆)として、それぞれに今でもわだかまりがある。【参考】 Wikipediaより「現代における津軽と南部の対立」例えば、夏の甲子園で南部地方の高校が県代表になると、津軽の人は自県の代表校といえどもあまり熱を入れて応援しない場合がある。また、経済レベルのでも対立は今でも続いており、津軽に本社がある会社が八戸に支所を置くことはほぼ皆無に等しく、その逆も然りである。以上の二つが、南部せんべいの産地免許皆伝の秘訣である。まあ、まとめて東北といっても広いし、岩手にしても四国四県に匹敵する面積がある。それぞれにこだわりをもって生活をしている。筆者も、南部せんべいを購入したときは、中味よりもついつい製造者名を吟味してしまう。そして、そこに青森県青森市・・・、などと製造者が南部以外の住所になっていると、津軽の奴め、南部を名乗りやがって・・・、と内心では、ついつい歯ぎしりをしながら、南部せんべいをポリポリと齧っては、余は満足じゃ、とおもうしだい。■本日もお立ち寄りありがとうございます。

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