どうでも雑記

「山桜が咲くまで…1」 

2024年05月03日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

妻は47歳という若さで逝ってしまった。
当時は末期癌患者の受け入れ施設はなく、子供たちと協力し合って、寒い冬を自宅で介護する。

手術で取り切れなかった肺のリンパ節への転移、抗癌剤治療を続けてきたが、心配していた脳に転移してしまった。
それも脳の奥中央部に位置することから、手術は出来ないため放射線治療を主治医から勧められた。
現在のような情報社会ではなく情報収集が難しいのと、本人に癌の告知をしない時代でしたが、妻に伝え命が助かるならと二人で医師を信頼した。

そして脳への放射線治療を行った。現在はピンポイントで照射できるが、当時の大学病院の先端技術でも難しく、放射線は広範囲に影響した。

妻の放射線治療も2回目の途中で中止となり、その直後には頭から顔が茹ダコのように赤く腫れあがり、せっかく生えた髪の毛が、今回はウイッグを取ったように髪の毛が一度にスッポリと抜け落ちてしまった。
意識はなくなり最悪の危篤状態に陥ったため親族にも連絡することになる。もう駄目か、葬儀の話しも出た。

それでも妻の生命力にはビックリするほどで、意識が戻り寝たきりの状態であったが、日毎に回復に向かう。
失明状態になり病院の個室で寂しかったのだろう、お父さんを感じるものが欲しいと言うから、kenの枕を持って行ったこともあった。

結果として頭部の放射線治療の成果は出ずに、副作用と後遺症の方が大きかった。
視力は徐々に回復したが霞がかかり遠くは見えなかった。歩行困難にもなったが安定したので車椅子で退院する。

この時代の先端技術を駆使して、大学病院は癌治療に力を入れていた。それは医療機や薬剤メーカーと協賛して実績を積むことから、医療技術のレベルアップを図ることでもあった。

KenはDrに相談しながら、命が助かるなら、寝たきりでもいい、少しでも長生きできるならと医療に救いを求めた。
今になって妻はそれで良かったのか、苦しめただけではないかと思いながら、医療の進歩には必要なことでもあったと、答えの出ない気持ちでいる。

医師の真剣な姿勢も感じとれた、妻もそれに応えるように頑張った。若かったこともあり回復力にビックリした。
放射線でスッポリ抜けた髪の毛が五分刈り程度に伸びた頃、視力低下や歩行困難などいろいろと後遺症はあるが、山里の自然環境・家族・家庭の温盛の中で少しだが元気が出てきたように思えた。



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