筆さんぽ

言語(ことば)で、自分と世界をつかまえてる 

2024年04月26日 ナビトモブログ記事
テーマ:筆さんぽ

年を重ねると、話がくどくなる。
亡き母がそうで、「その話、聞きましたよ」と指で数える仕草をしても、堂に入ったもので平然としている。

こういう人を「エンドレス人間」というそうである。
なんでも、繰り返しの「カセット人間」という意味で、頭のなかの数個のテープが、不要品交換の放送のように鳴っている人のことをいうようである。
むろん、繰り返しは老化現象のひとつであろう。

だがしかし、かつて40歳ですでにエンドレス人間になっている知人がいた。
40歳にして朽ちていると、大仰にいえば、凄惨な思いがした。
つまり、その知人のなかのテープは三つか四つしかなく、主として、体験談か自慢話であった。
人間とは、それだけのものか、と思った。

ほとんどの人は、ぼくを含めて、永く生きたようなつもりでいながら、もちろん例外もあるが、じつは語るに足るほどの体験は数件ほどもないのではないのだろうか。
短編小説にすれば何編にもならないであろう。
(むろん、体験と小説は、直結するものではないことを添えておく)

あとは日常の連続で、習慣と条件反射で暮らしているのであろう。
 娯楽のすくなかった、たとえば江戸期の農村の人々も、40歳になれば自分の過去の出来事を繰り返し語って、死んで灰になるまで、語り続けたはずである。

若いころ、小学生の娘に、たしか「なぜ学校に行かなければいけないの?」と問われて、しっかりと応えられなかったことをおぼえている。

年を重ねた今なら、
「何を学ぶのか、よく考えなさい」
とだけは応えられる。

娘が大人に成熟した今なら
さらに「エンドレス人間」にならなければよいと応える。

人間は、言語で自分と世界をつかまえている。
言語を豊富にするためには、教育をうけたほうがよい。自然科学や人文科学などの概念をふやすことができ、自然と人間世界が、刻々と劇場のようにあきないものになる。

しかし、歪んだ受験のために、たくさんの「型だけを暗記」したり、決して「物事を基本的に考えない」という人間にはならないほうがよいにきまっている。

教育とは、学校に行くことだけではない。
決意のいることだが「独学」というやり方もある。独学によって、教養を高め、社会的地位や芸術的実績を獲得した人も、たくさんいる。

むしろ、独学のほうが個性的なように思うこともある。
しかし、独学は万能ではない。ひとりよがりの危険におちいることを常に意識しておきたい

話を戻す。
「いい芸術は高度な快感の体系である」といわれる。同感で、それに接するには、少年少女期からの蓄積がいるであろう。

蓄積が感受性を鋭くさせるのであろう。
そのためには、ほどほどの教育はうけたほうがよいであろう。
といっても、これは、親子、家庭内で話すようなことではなく、教育の現場などで、たとえばこんなふうに話したらどうであろう。

「キミたちは、自分の人生を退屈させないように、さらには人を退屈させないために、何が必要であるのか、じっくりと考えてほしい、そのひとつに教育がある」

考えてみると、ひとりの人生は、ヤマ場だけとりあげれば、数個のカセットテープしかないであろう。
しかし、感受性がゆたかであれば、これほどおもしろい人間社会はない。

ぼくは、かつて入院したときに出会ったMさんのことを思い出している。
同室のMさんにが「富士山の写真」をみて、命あるうちに富士山を登りたいとぼくにつぶやいた。ぼくは、「必ず一緒に登ろうと約束」した。このときは本気であった。

しかしMさんは病状が悪化して、あっけなく亡くなってしまった。ぼくは、果たせぬままでいることに心が痛み、空想の「たのしい富士」を描いた。
この富士を見ていると、Mさんのことを思い出す。

ことほどさように、
ここの多くの方の「ブログ」だけでも、無数の劇場を提供してくれているのに、私どもは、むろん自分も含めて、無感動でいるだけではないであろうか。

記したことがあるかもしれないが、つぎの話が好きだ。
「あなたの最高傑作は?」と問われたピカソはこういう。
「これから創る作品です」

「カセット人間」を責めたことから、そうなるまいと書いてきたが、ここで読み返すと、なにやら支離滅裂的、散漫で失礼しました。
書くことはじつは、自分の人生を退屈させない術の一つであると思っているのでお許しください。

春寒しキミに贈るは笑ふ富士   蜂鳥



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