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連載「バンコクカフェの女」(3)
2024年04月23日
テーマ:連載物語
(前回)
近所の少女が工事中のナマズ養殖池に行ったまま行方不明になった。少女を探しに来た父親が、池に浮かんだ「赤い麦藁帽子」を発見して、池の捜索がはじまり、水死体になった少女が発見された。
警察もやってきて現場検証をしたが、そもそも立入禁止の場所だったので、会社は咎められることはなかった。
警察の書類一枚で「事件」は解決した。いくら立入禁止といっても柵で囲ってあるわけでもないので、会社にまったく非がないわけでもないと伊藤さんは思っていた。
あとで聞いたが、少女は養殖場の横に流れる小川にナマズを獲りにきた。病気がちの父親のために、栄養価の高いナマズのカレーを作ってあげるといっていたそうである。少女は、村人の話によると、気のやさしい正直な子で、もちろん養殖場のナマズを盗みに行ったわけではないと断言できるという。
伊藤さんは、事の詳細を文書にして本社に、幾らかの見舞金を支払うべきであると伝えた。本社からは何の連絡もなかった。メールで何回も問い合わせたが、業務に専念しろというだけだった。やむを得ず、伊藤さんは自分のお金を用意して、掘っ建て小屋同然の少女の家に行った。少女には母はなく、父親と二人暮らしだった。
父親は何も言わずに、伊藤さんの顔をも見ずに、お金の入った封筒を受け取った。父親は唇を噛んでいるように見えた。伊藤さんは家の中にも入れてもらず、門前払いのようにして返された。
それから数週間後、少女の父親が養殖場に伊藤さんを訪ねてきた。そして、ていねいにワイ(合掌礼)をして、壜に入った瑠璃色のベタを伊藤さんに渡した。聞くと、一週間ほど前に生まれたベタだという。
ベタは、変わった魚で雄が吹き出した泡で浮巣を作り、雌に産卵させる。父親の話では、このベタは少女が養殖場に落ちて死んだ日に孵化した。父親は少女の生まれ変わりだという。それだけではなく、何十年に一匹生まれるかどうかの屈強なベタだという。伊藤さんはあらためて、ベタを見た。魚体は瑠璃色だが、尾鰭、背鰭に赤の筋文様走る、そして頭部にある赤い文様が麦藁帽子のようにのっていた。
この父親のベタをきっかけに、伊藤さんは村人と打ち解けて話すようになった。伊藤さんは毎日のように、村に一軒しかない食堂兼酒場で村人たちから、この辺りで盛んな闘魚の話をきいた。
伊藤さんはだんだん会社と連絡をとらなくなり、やがて辞表も出さずに会社をやめてしまった。伊藤さんはスーツとネクタイを脱ぎ捨て、Tシャツとジーンズで村に部屋を借りて暮らすようになった。収入のなくなった伊藤さんは、村人の紹介で、バスで三十分ほどの町にあるタイ料理店に勤めるようになった。
そのタイ料理店の定番の料理はナマズ。ナマズは、高タンパク、低脂肪でビタミンも豊富で、焼いたり揚げたり煮込んだりと、じつにさまざまな料理がある。そのなかでも、ヤム・プラドック・フーは料理人の腕がものをいう。伊藤さんは、店に頼み込み、料理長にヤム・プラドック・フーの作り方を仕込んでもらった。
田村は、ソファに身体を沈めて伊藤さんの話を聴いていた。伊藤さんは、壁面の、幅広い本棚の前に立った。
「このベタですよ」といって、伊藤さんは、水死した少女の父からもらったベタであると説明した。よく見ると、鰭に赤の筋文様が走り、頭部に赤い麦藁帽子のような文様がある、瑠璃色のベタだった。
「もう、こんなに大きくなって、頭に赤い帽子をかぶっているみたいでしょう。今度の闘魚に、『赤帽子』という名で出しますよ」。
「赤帽子?」
「あの頭の赤い文様ですよ」
田村は「闘魚って、賭博ですよね、金を賭ける」と続けた。
「そうですよ、彼女ノックのね、闘魚の賭けでもらったのですよ」と伊藤さんはノックを見た。「ひどい父親でね」とノックがいうと、伊藤さんは「別に、ノックがほしかったわけではないのですがね、博打好きのノックの父親の頭を冷やしてあげようと思ってね」「それでノックを働かせているのですか?」
「身請けの証文はありますけど、ノックが自分で決めたことで、何も束縛していませんよ。この家はベタの家で、ノックに世話をしてもらっているのです。私は下宿暮らしですよ」
「ベタも私も自由の身だけど、孤独なのよ」とノックが言うと、伊藤さんはノックを見て「自由はいつだって孤独なのだよ。それに孤独なほうが幸せなときもあるのだよ」
「さあ、下宿に行って、休みましょう。明日は、みんなでいっしょに試合を見に行きましょう」と伊藤さんは言って「赤帽子が勝ったら、ノックに身請けの証文を返してあげると約束したのですよ」と続けた。
(つづく)
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