筆さんぽ

言葉 「写生詩」の試み 

2024年03月24日 ナビトモブログ記事
テーマ:筆さんぽ

詩人の寺山修司さんが自著のなかで、S・I・ハヤカワ『思考と行動における言語』のなかのつぎのような例を紹介していた。

「月がきれいだわ」という言葉。この言葉は一体、何を意味するか? というのである。
もし、これをそのまま解釈すれば、気象的観測である。しかし、これをいった女と聞いた男とが恋人同士で、そこには二人しかいなかった場合、「月がきれいだわ」ということばはたちまち、キスの催促に早変わりすることだろう。


俳句の世界に「写生句」というのがある。
正岡子規の唱えたもので、句を詠むにあたり、過去の作品の影響下ではなく、「見たまま」句作するという創作姿勢のことである。
俳句における文学理論の一つで、正岡子規の「写生」を虚子なりに発展させ、現代の俳句創作でも要とされる。
その理論は、高浜虚子は書簡で明らかにされている。
私は客観の景色でも主観の感情でも、単純なる叙写の内部に広ごつてゐるものでなければならぬと思ふのである。即ち句の表面は簡単な叙景叙事であるが、味へば味ふ程内部に複雑な光景なり感情なりが寓されてゐるといふやうな句がいゝと思ふのである。、

つまり、「俳句は短いため直接主観を述べる余地がなく、事物を客観的に描写することによって、そのうしろに主観を滲ませるほうがいい」という考え方である。
そういわれてみれば、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」は、「見たまま」を詠んだ写生句ではないだろうか。

この「見たままの世界」を、言葉の世界、つまり詩の世界で実験的に試みた。「写生」は、どう伝わるのだろう。

秋の海
水平線は弧を描いている。その上の空には鰯雲が泳いでいる。鳶が三羽滑空している。三軒並んだ海の家は入口に板を斜め十字に打ち付けられ屋根のトタンがパタンパタンと音をたてていた。海の家の横に積んだ廃材に座って海を眺めている。砂浜に足跡は一つもなかった。目の先には音のない波が打ち寄せている。波打ち際に細身の白いパンツの女が漆黒細身筋肉質のドーベルマンを連れて歩いている。波が打ち寄せると女は跳ぶようにして波を避けドーベルマンもいっしょになって跳ぶ。しばらく白いパンツと漆黒のドーベルマンが並んで歩く。突然ドーベルマンが立ち止まってこちらを睨んでいる。漆黒の彼はひと吠えしたあとこちらに向かって走ってくる。白いパンツの女が漆黒の彼を追ってこちらに向かって走ってくる。


公園のベンチ
初老の夫婦が腰をおろしている。夫の顔にはびこるような仔細な皺が奔放に走っている。五分刈の白が目立つ頭髪や削いだように肉の落ちた頬。妻は櫛目の通った半白の髪を後ろに結び上げて「姉さん人形」作りが趣味といった眼差しをしている。夫は女は黙って働け風呂は女を先に入れると男が出世できないと必ず先に入る。ふたり連れ添って歩いたことはまずない。用があって出掛けるとき妻は夫に三歩下がってついていった。夫を誘うのは今日がはじめてだ。「それで、検査結果はどうだったんだ」妻は喘息のようなぜーぜーと風邪のような症状があり病院で診てもらったところ肺がんが発見された。早期の発見であったので肺の一部を削除して一ヶ月ほどで退院した。今日は手術の半年後の検診で病院にやってきた。夫は妻と一緒に医師から「結果」を聞くことになっていたが「同席」しなかった。「で?」「一緒に聞いてくれればよかったのに」「ああ」夫が独り言のように話しはじめた。「どうなんだ?」夫が妻にうながす。「うん…」。「再発はしてなかったんだな」「ええ」「行くか」と夫は妻をうながす。妻はベンチに座ったまま夫に手を向ける。夫は妻の手を握って妻の身体を自分に引き寄せた。


弔い
男は閉店一五分前の一持四五分に木製の歪んだ丸椅子に腰掛け両手をカウンターに置きバーテンダーのスズキにうつむいたまま「たのむ」という。スズキはいつものスコッチウイスキーのタリスカーをカウンターのショットグラスに注ぐ。スズキはボトルを男の前に置き氷が入ったチェイサーを作りカチンカチンいわせながらショットグラスの横に置く。男は小さく頷いてまた「たのむ」という。スズキはレコード棚から一枚のLPを引き抜きプレイヤーの円盤におきは針を落とす。「One for the road」の響きが流れる。男はこれを合図にショットグラスの琥珀を口に放り込む。スズキが来てショットグラスにタリスカーを注ぐ。男は「たのむ」といって用意してきた深紅の薔薇一輪をスズキに渡す。スズキは奥に行って深紅の薔薇であふれている深緑の花瓶に男の一輪の薔薇を刺す。



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