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筆さんぽ
「好き」
2024年01月29日
テーマ:筆さんぽ
人を好きになったことは、むろん、幾度もある。
「好き」というのは、きわどい。
たとえば、男女のなかで軽々に口にすると、大怪我をすることもある。
そのためかどうか
「好き」を認める精神は儒教にはなかったようで
認められたのは、室町のころだという。
室町のころに「すき」が認められた。
ただし色恋をささず、茶の湯などをさしたようだ。道具に凝り、値が張る茶碗を手に入れ、身上をつぶしたものいたほどであるという。
そのため、「すき」ということばに
わざわざ「数奇」という漢字をあてた。
数奇とは、数が運命をさし、奇は不遇を意味する。
みなさんがよくご存知のフレーズに
「亭主の好きな赤烏帽子(あかえぼし)」がある。
ウンチクをお許しいただきたい。
室町の時代の大名で松浦肥前守というのが「数寄」の心をもち
その面で評判の人物だった。
あるとき彼は、赤烏帽子をつくらせ、場所もあろうに、その姿のまま殿中にまかりこした。
室町の殿中でも服制は礼の基本で、この酔狂には、まわりの人は仰天した。
肥前守はむろん切腹を覚悟で赤烏帽子をかぶり、将軍の前に出たのである。
ところが六代将軍義教(よしのり)は、
彼の覚悟と数奇の心をよしとしてほめたたえ、わざわざ筆をとって肥前守のその姿を写生してあたえ、そのきわどい行為をゆるしたという。
数奇は、芸術的創造の気分であろう。
ただし、自分の身を破ることがあっても、他人に迷惑をかけるのは、けっして数奇ではない。
さらに、色情に身をゆだねるのも数奇ではない。
だから冒頭、「きわどい」といった。
「わかっちゃいるけど」
芸術は、色情の高度に昇華したものであると考えたい。
今の世には数奇の道は多く、このブログを書いたり、俳句を詠んだり、拙い絵を描いて諸欲を、すべてとはいわないが、昇華させることもできる。
それが面倒なら
あの赤烏帽子を見ならうだけでも浮世はたのしい。
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