筆さんぽ

タクワンとチーズ 

2024年01月22日 ナビトモブログ記事
テーマ:エッセイ

「お店でお待ちしてまーす」
J町の商店街を歩いていたら、後ろから来た、自転車の女性が追い越しざまに声をかけてきた。どこの店の女性だろうか。
お酒はワケあって、やめていたが、自転車の女性に声をかけられて、学生時代を思い出した。

学生のころ、友人と三人でよく飲んだ。肴は「タクワン二切れ十円」からあった東京・新宿西口の安い酒場で飲むことが多かった。
 
ある日、酒がほどよくまわったころ、ひとりが言った。
「いつもの安酒じゃあなく、たまには女のいる店にいきてえな」。言い方も、若いのにオヤジのようになっていた。「女のいる店」といっても、いまのような健康的な「キャバクラ」などはない時代で、「女のいる店」というと、いかがわしい匂いがした。

ぼくたちは、「女と飲む」といったら、小言の母の前で飲む経験しかなく、「いかがわしい匂い」に踏み込む勇気はなかった。「小言」を「タクワン二切れ」に替えて飲む毎日なので、こうしたささやかな「刺激」を求めることになる。

三人とも、バイトはしていたものの、脛かじりの身なので、むろん「豪遊資金」などはあるはずもなく、お金のかからない「女のいる店」はどこにあるのか、という話になる。

ひとりが、とびきりの計画を立てた。まず、めぼしい店に「斥候(敵の状況などを探る兵士)」を放つ。「女のいる店」は敵地のように危険なのである。店に入った斥候は、料金の安いカウンターに座り(テーブル席は「席料」がとられる)、敵、いや、店の状況を探る。メニューがあれば料金を調べ、客層を観察し、店の女は、やさしいか、「金をぼる」ような店かどうかなどを探るのである。

そして、しばらくたってから、残ったぼくたち二人が店に入る。そのとき斥候は、ぼくたち二人に合図する。このときは、斥候が「安心できる店」と判断したときは、「耳に手をやる」ことにし、「入らないほうがよい店」と判断したときは「オデコを手で叩く」ことにした。

店を選んで、いよいよ斥候が入る。やがてぼくたち二人が店に入ったとき、斥候は愉快そうで、「女」とのぞけるように笑いながらも、「耳に手をやって」いた。

ぼくたち二人は「楽しそうにやっているな」ともらい笑いしながら、店に入った。三人は飲み終わって、清算をお願いした。

ところが伝票を見て、目を丸くした。三人の財布を合体しても、とても払える料金ではない。やむをえず、斥候が店主と交渉し、腕時計(後日支払いに来る「担保」)を店に預けて帰してもらった。  店を出た後、当然ながらぼくたち二人は斥候を責める。

斥候は、耳に手をやってない、と言い張る。
ぼくたち二人は口をそろえて「たしかに耳に手をやっていた」と詰め寄った。
 「耳に手をやっているのは、二人で見たんだ」
「いや、舌を噛んでしまって、痛くて頬に手をやったんだ」
「だいじなときに、まぎらわしいことをするな」
 
「肴に、大好きなチーズが出たんだ。が、いつものタクワンをかむ調子で噛んだら、歯ごたえなく、舌を噛んでしまった」。
ぼくたちは心のなかで「それって、わかるよ」と、悲しくなって、これ以上は斥候を責めなかった。
 
「力学」というのは力関係でもある。タクワンはチーズに地球規模の知名度では負ける。タクワンは名僧、沢庵和尚が考案したともいわれる。和尚は「心こそ心迷わす心なり 心、心に心許すな」と、自分を見失ってはいけないといさめる。

 商店街で声をかけてきた女性を思い出した。
 ときどき行く、コンビニの店員さんだった。



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