筆さんぽ

M子の展覧会 

2024年01月15日 ナビトモブログ記事
テーマ:エッセイ

知人のSさん相談された。
Sさんが親しくしているTさんご夫妻は、娘さんの「追悼集」を創りたいというのである。

Sさんは、ぼくがかつて、本創りの仕事をしてきたのを知っているので、依頼してきたのであろう。
Tさんご夫妻とお会いした。

ご主人は定年退職されていると聞いていたが、名刺を渡された。名刺の肩書には、ある公立高校の元校長とあった。

奥さんがハンカチで目を押さえながら言うには、娘のM子さんはデザイン関係の専門学校のときに、自らいのちを断ったという。「なぜ自死を選んだのか」などと、聞くことはできなかった。

ぼくはまず、追悼集の「素材」を集めることを提案した。
本人の写真、専門学校時代の作品、友人の追悼文などである。それを集めてから構成を考えましょうと提案し、後日また会うことにした。

別れ際、自死の追悼集ということもあって、お悔やみの意で奥さんに小声でボランティアでやらせてくださいと伝えた。
奥さんはまたハンカチで目を押さえ、お礼を言われた。

一ヶ月ほどたったであろうか。図書館の広場にある喫茶店で会った。
選んできた写真はさまざまあった。追悼文を書いてくれる人のリストもある。

ぼくは、M子さんの笑顔の写真や、明るい色の作品の写真をみて、M子さんには「追悼集」は似合わないと思った。ご夫妻に、題字(タイトル)はお考えですかと聞いた。

「惜春です」とご主人きっぱりと言った。
奥さんは、もっと相談してからにしましょうよと、かるくご主人を制した。

ぼくは、若いM子さんに「惜春」は似合わないといい、「どうでしょう、『M子の展覧会』というのは」。
奥さんの顔は明るくなったが、ご主人は気に入らないという顔をしていた。
奥さんは、次回決めましょうととりなした。

奥さんから連絡があり、泣いて訴え『M子の展覧会』に決まったという。だが、「惜春」の文字は表紙のどこかに載せるという条件付きであった。

それまでは一つの目的に向かって進んでいた。
ご主人が、いきなり、これはぜひ表紙に載せてもらいたいと一枚の紙をだした。

そこには「誕生日おめでとう。足もみ券」とあった。
奥さんがあわてて「それは…」と制した。

後日、奥さんから連絡があって「あの券は娘の書いたものだが、父には渡したくない」といって引き出しの奥にしまっていたものだという。
奥さんはまた涙を流して「M子が喜びません、断言できます」といった。

ご主人は娘のM子さんが生きているときに受け取れなかったのであろう。
想像はできるが聞くことができなかった。

結局、すったもんだあって、表紙にではなく本文に載せるということで落ち着いた。

ご主人は、何社からの印刷見積もりをとりましょうというぼくを無視して、校長時代に出入りしていたという印刷会社にするという。調べると、そこは追悼集の類を自社でつくれる会社ではなかったが、ぼくも諍いに疲れていたので承諾した。

数カ月後、『M子の展覧会』が出来上がった。
喫茶店でご主人は、「謝礼です」と茶色い封筒をだした。現金であることはわかった。好意という言葉を知らないのだろうか。
「いただけません」とぼくは、用事があると言って席をたった。

若い娘さんにはそぐわない「惜春」と、もらえなかった「足もみ券」と、この現金封筒。

娘さんとも、こんなふうに接してきたと思うとせつなくなる。
ぼくは、人様の家庭のことを詮索したくなかったが、気持ちが晴れなかった。

後日、奥さんからちいさな荷物が届いた。開くと、ぼくのイニシャルを刺繍したハンカチが数枚入っていた。手紙が添えられて、
お礼の後こう結んであった。
「M子がいちばん喜んでいます」



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