筆さんぽ

「ねえ、おばあちゃん」 

2023年12月28日 ナビトモブログ記事
テーマ:テーマ無し

「ねえ、おばあちゃん」
テレビをみていて、気になった。
ちょっと、おかしいのではないかと思うことがある。

旅番組だったと思うが、女性アナウンサーが
過疎村の農家の縁側で、日向ぼっこをしている老婦人に
「ねえ、おばあちゃん」となれなれしく呼んでいる。

この場合、多少うがった言い方になるが
かすかに「強者」と「弱者」の匂いがする。
それの証拠になるだろうか
女性アナウンサーはたとえば
かつての総理夫人に
「ねえ、おばあちゃん」などとはいわない。

「おばあちゃん」がいけないというわけではない。

たとえば、老婦人に道で出会えば
自分はその孫であるように思い込み
老婦人を背負い、荷物をもってあげる
そうする気があってはじめて
「ねえ、おばあちゃん」であろう。

そんな目くじらをたてなくてもいいでしょうと
言いたい人もいるだろう。
「ちょっと心やすく愛着を込めて呼んだのです」
という言い方は理解できる。

気になるのは、この「心やすさや愛着」からでた擬声語が
老婦人という独立した人格として
認めているのかどうかということである。

つまり、相手はたんに「年齡的存在」にすぎず
江戸時代の
「そこの町人」とよびとめるのと
基本的には同じになる。

これは、言葉の問題ではなく
大仰に言えば日本人の意識の問題であろう。

NHKではかなり前から、
上記のような呼びかけをやめにしたと
聞いたことがある。
これも大仰に言えば、日本語の一つ前進である。

「儒教」はどうなっているのかと
おっしゃる方もいるだろう。
じつは多くの学者は
日本社会は、よくいわれるほど
儒教は入っていないという。

余談になるが
中国では、老(ラオ)とか爺(イエ)という内容は
最高価値におかれていると何かで読んだことがある。

儒教国だといわれる韓国でも、老人に対しては
父に準ずるほどに敬意をかけられる。
かつては、老人の前でタバコを吸うという
勇気ある若者はいなかったし
老人と合うときは眼鏡をはずしたという。

これもよく見かけるが
タレントの司会者などが
会場の一般参加者に、誰か一人を指名するとき
「そこのお母さん」などと、甘ったれていう。

つまりは、家庭内で、
自分の妻に、娘や息子にならって
「お母さん」とよぶ習慣と同心円にある。

ちょっとおかしいのではないか
見知らぬ女性を会場でつかまえて、
自分の女房あつかいしてしまうことになる。

明治期に成立したといわれる若い日本語は
いま成長しつつあると考えたほうが
日本語が美しくなると考えるがどうだろう。



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