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雑感日記

私の日記から 昭和45年(1970)〜昭和47(1972) 

2023年12月16日 外部ブログ記事
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★この3年間は、30代最後の3年間である。 私にとっても、会社としても激動の3年間だったと言っていい。 前年の4月に川崎重工業・川崎車両・川崎航空機の3社合併があって川崎重工業となるのだが、 この合併で異質で且つ重荷であったのが実は二輪事業なのである。 当時は船・車両・航空機に代表される大型受注産業が主力で、 開発・生産・販売を自らの手で行う民需・大量商品などグループにとって異質の存在だったし、 その業績が赤字と言うこともあって、『50tの中止』などが合併の条件になったし、 シェア競争などは会社の方針としては全く異質で、 二輪事業部の経営は台数などよりは黒字経営が最優先課題となったのである。★そんなこともあって、当時のカワサキで台数ではTOP市場であった東北から、当時最悪の市場と言われた大阪を中心とする近畿地区の担当に異動することになるのである。 二輪市場もようやくスポーツ車が出始めた時代で、 メグロとの合併もあって中大型車種のメーカーとしてスタートした年だと言ってもいい。 当時の二輪販売は50tモペット全盛期で、その販売方式は自転車屋への委託販売が主流で、 大阪地区だけでも部品取引を含めて500店以上の自転車屋と取引があったのである。 中大型車の販売には、このような販売網は全く機能しないので、 そのスタートは大阪地区の25店の中大型を主力に売る店に絞って、 500店の自転車屋との取引を中止するという粗っぽいことからスタートしているのである。 このような動きは当時の二輪車業界では初めてとも言えることで、 業界の注目を集めて、 大阪母店長着任4か月目の昭和46年(1971)2月の二輪車新聞でもTOP記事で大々的に報道され、 カワサキのこのような新しい動きは全国の注目を浴びることになるのである。 その翌年の昭和47年(1972)1月には、東京地区を主力とする二輪専門店の約100店が当時のアメリカの二輪市場視察団として渡米しているのだが、 この時期にアメリカなどに行った人は本当少ない時代で、 二輪業界としても初めての海外渡航だったと言っていい。 先進的なアメリカの二輪販売店を実際に見ての『意識改革』が行われたのである。 私もこの調査団の副団長としてアメリカの二輪専門店を見て、びっくりしたのを覚えている。★そんなことから、新しいカワサキの販売店政策は進行するのだが、 その中心になってくれたのが、大阪の船場モータースの岡田博さんなのだが、 初めて岡田さんに会ったときには、 東北ではカワサキもよかったらしいが、 大阪での評価は『ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ』だよと言われたのが耳に残っている。 そんな状態だったので、大阪での翌年の販売目標は台数ではなく、 担当した大阪母店で、総売上高420百万・総利益60百万円という金額的な目標を掲げて、 取引を始めた販売店にも年間1000万円の取引目標だったのである。 この金額は当時の業界では全く異質で、こんな金額を売っている店は、 ホンダさんでも少なかった時代なのである。 然し、大阪で25店の店に絞り、京都に至っては10店しか取引契約を結ばなかったので、 カワサキの契約店は殆どの店が目標を達成し、いずれも相当の利益を上げたのである。 車ではW1Sが好調で当時の主力車種だったと言っていい。  ★数少ない販売店と共に栄える『大阪共栄会』なるものを立ち上げて、 先ずは参加す販売店の『利益優先』を目標にスタートしたのだが、 各地区とも好調に推移したこともあって、 私の担当地区は昭和47年(1967)1月には兵庫県が傘下となり、 4月には中日本営業部長として名古屋・北陸・三重がテリトリーとなり、 さらに10月には東京地区を含めて、 東京から兵庫までをテリトリーとする直営部長と目まぐるしく担当地域が増えたのである。★ カワサキの二輪事業はこんな時期だったのだが、  当時の世の中は土地を買って家を建てるというのがブームの時代で、  当時はまだ仙台にいたのだがたまたま明石に出張したら、  面識のあった大和ハウスの人がいて  『廣野の奥にいい土地を造成中』だからと連れていかれて、  即座に土地の購入の予約書にサインしたのである。  いまは立派な住宅地になっているが、  当時はこの一帯すべて山だったのである。  土地を購入したのは昭和45年(1970)のことなのだが、  前述したように会社の異動があって  昭和47年(1972)には明石勤務となったので、  家を建てることにしてこの年の9月に着工し翌年3月に三木の住人となったのである。     1973年のことだから、ちょうど50年間三木に住んだということで、 人生で一番長住んだ町となっているのである。 この時期は仙台から高槻、そして三木と目まぐるしく移転しているのだが、 人生でこんなに異動があったのはこの時期だけかも知れない。 子供たちも仙台・高槻・三木と小学校や幼稚園を変わったのだが、 特に問題もなく新しくできた三木の小学校に落ち着いたのである。  

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