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たかが一人、されど一人

信仰と宗教心 

2023年05月27日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 友人の中には、俺は無宗教と言い切る人もいるが、小生は敢えて仏教徒だと言っている。葬式だけの宗教だけだろうと言われそうだが、確かにそうかも知れぬ。けれど毎日仏壇に手を合わせるのだから言ってもいいだろうと勝手に決めている。仏壇にあるのはお釈迦様の像と亡き家内の位牌のみ。寺が曹洞宗だが、開祖が道元と知るだけでお経は全く知らない。弟が葬式の時、観音経を唱和するのを聞いてびっくりしたものだ。寺の住職とは今年は何度も話をした。自分の葬式に際して恐らく喪主になるであろう娘も紹介した。葬式は多分東京でということになりそうなので、導師は依頼しないかもしれぬが、納骨は間違いなく境内の墓に入れるよう指示してあるので宜しく、との仁義まで切って、住職も快く承知してくれたので安心している。人間誰しも似たようなものだと思うが、歳を取りあの世が近づくと、地獄行きだけは勘弁願いたくなるのが自然だろう。故に坊さんと仲良くなって極楽に送ってほしくなっている。先に毎朝仏壇に云々と書いたが、ここで何を祈るかだ。祈りと言えば概ね神の慈悲を願ったり許しを請うとしたものが普通のようにも思う。しかし小生は、毎朝家族と親しい友人の顔を思い浮かべるのが常である。中には既に幽明境を異にしている人も半分くらい居ると思う。思い浮かべるだけで特に念じることはない。1日の始まりの気休めかもしれぬ。人間の信仰とか宗教心は不可思議なものだ。無宗教であっても心の拠り所として、何かを持つ人は多いだろう。子供の頃、長いこと我が家には神棚も仏壇も無かった。けれど父が毎朝庭に下りて東に向かって手を合わせ何やら熱心に拝む姿を見ながら育ってきた。その父が何を念じていたかは聞いたことがない。勝手に想像しているのは、故郷の寺から除籍手続きを踏んで長野で新しく檀家となる寺を定めて自分が入る墓まで買っているけれど、お釈迦さんの教えをどこまで研究したかも、その信仰の深さも心許ないように思う。大晦日から元日にかけては善光寺や近くの神社に2年参りもしていたが、近くの氏神さんを厚く信仰していた気配もない。一見すれば無宗教ぽくもあるが、何かを信仰していたことは間違いない。小生もそれを真似ていることになる。牧師の友人もいるが、信仰について深い話は聞いたことがない。個人の信仰が他人に迷惑を及ぼすのは論外だが、迷惑を及ぼさない限り、全財産を信仰するところに寄付するのは勝手だろうと思う。明日は久しぶりに奥多摩の山に行くのでブログは休みます。

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