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「開国と攘夷」下田の街レポートK吉田松陰の「下田踏海」は嘘で「墨使膚懲=ペリー刺殺」であっただった 

2023年05月26日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「幕末の安政条約」を、下田の街を歩いて実地調査に同行した歴史研究家和田一氏から、礫川全次著『攘夷と憂国 近代化のネジレと捏造された維新史』を紹介された。
書棚にあった奈良本辰也著「吉田松陰著作選」から「回顧録」を読んでみたが、「下田踏海」であった。
『攘夷と憂国 近代化のネジレと捏造された維新史』は、松陰らの「下田踏海」目的は、海外渡航ではなく、墨使膚懲=ペリー刺殺であったというものである。


?第二章 「吉田松陰と下田踏海事件」?「疑いの目」を注ぎながら、事件の真相と本質に迫ってゆきたいと思う。?〇川口雅昭氏の「下田渡海考」? 田中彰編『維新維新の思想と社会』(吉川弘文館、一九九九)に収録されている「下田渡海考」という論文がある。筆者は岡崎学院国際短期大学(当時)の川口雅昭氏である。それまでの「下田踏海事件」観の見直しを迫り、同時に従来の吉田松陰像にも修正を追る画期的な論文である。? 論文末尾の「付記」によれば、同論文は、川口氏が一九九六年に、中国四国教育学会でおこなった報告を基礎にまとめたものであり、研究にあたっては「北海道大学名誉教授田中彰博士からも、折に触れ、御教授を賜った」という。? これは、きわめて重厚な論文であるが、その内容を一言でまとめれば、松陰らの「下田踏海」ぼくしようちょうの真の目的は、海外渡航ではなく、墨使膚懲=ペリー刺殺であったというものである。 【注】 「墨使」の「墨」は、亜墨利加の略、すなわち「墨使」は、アメリカの使節(ここではペリー)の意。「膺懲」は「うちこらす」の意である。
『幕末維新の社会と思想』の編者である田中彰氏は、同書の冒頭で、「はじめに」という形で収録論文の解題をおこなっている。田中氏は、この中で、川口論文について、「松陰がペリーの軍艦へ強引に乗り込んだのは密航のためだ、というこれまでの解釈は、みずからの真意をかくそうとした松陰の『偽言』にまどわされていたのであり、真意はあくまでペリー刺殺にあり、それを示す史料の片々を示し、状況証拠によって右の自説を論証しようと意図したものである」というふうに紹介している。? 川口説の魅力は、何といっても、「そう言われてみれば」と領けるところであろう。つまり、それは、さほど奇矯な説ではなく、むしろ十分に納得できる説だということである。尊王捜夷の志士(思想家+革命家)として知られる松陰の生涯に同事件を位置づけたようとしたとき、また日米和親条約締結の直後という時代背景を考えたとき、米艦搭乗の目的が「海外渡航」にあったとしたのでは、どうもシックリこない。その目的は「ペリー暗殺」にあったと考えるほうが、むしろ自然であり合理的なのではないだろうか(松陰ファンと言われる人ほど、そういう感想を抱くのではないかと推測する)。? インターネット上に、無署名の「ペリー刺殺計画」と題する文章(二〇〇〇・〇九・〇三)があるが、それによれば、この川口氏の所説は、すでに二〇〇〇年の段階で、テレビで紹介されていたという。当時、この説が注目を集めたということであろう。同文章の筆者は、川口説のポイントを紹介したのち、「外国に渡って海外事情を視察したいと向学心に燃える松陰より、ペリーを殺そうとする血気盛んな松陰の方が魅力的だと私は思いました」とコメントしている。?〇黒川嘉兵衛による「取調書」 下田踏海事件の概略は、先ほど紹介した通りだが、松陰らがポーハタン号に乗船するまでの経緯については、事実関係の上で、大きな争点はない。問題は、「海外渡航」の願い出が、「本心」からのものだったか、それとも「ペリー刺殺」という目的を隠した「偽装」だったかということである。??以下、従来、あまり言及されてこなかった細かい経緯について検討を加えながら、この事件の真相に迫っていきたい。
文中で引用している「福本義亮著 下田に於ける吉田松陰」(国会図書館デジタルコレクション)は、著者が昭和年に下田まで調査した記録である。
この著書に寄れば下記地図の「トドリ崎」は、古図にあるので「旗艦ポーハタン号」に近い、水兵の洗濯場石段があった須崎に降ろされたことが理解できる。

「絵葉書下田百景」の「松陰上陸の碑」

第三章 「揺れる松陰、偽る松陰」
外国船に乗り込もうとしたとき、船員らが伝馬船を外へ押し流したのは、軍事に精通していたからです。伝馬船に火がしかけてあって、その火が本船に移るということを警戒していたのです。そのくらいの心がけでなくては、万里の波濡を乗り越え、使節として来航することはできません。船中で使節の首を斬ることなどできるはずがありません。網にとらわれた魚のようなものです。こんなことは小児だって理解できることです。外国の使節を斬るというのは、将軍がいよいよ戦争と決したときのことです。将軍がその決断をしない場合でも、二三の大名が断固として戦争を決断した場合であれば、使節を斬って功があります。そのように戦争と決まったとしたら、あなたは外国船に頼んで外国に行こうとする気持ちを留めるにちがいありません。まず戦争にはならないと見定めたからこそ、あのように外国船に近づいたのでしょうが、だとすれば、使節を斬ったとしても功は少ないのです。ましてや、船中で船員らに取り囲まれた状態では、あなたが百人いたとしても、斬ることはできない道理です。(あなたに手紙を寄こした久坂玄瑞という人は)あなたが外国船に近づいた本意をまったく理解せず、その結果について色々と難詰しています。それだけでなく、使節を斬ることが不可能だったということを知っていながら、斬る斬らないの責任論を展開しています。もちろんこれは血気の勇というものです。その手紙に対して、あなたが返信しているというのも、あまり賢いことではないと思います。?
章末に次のような記述がある。
 下田踏海にからむ松陰の一連の言動を見てみると、あまりにウソ・偽りが多く、どこまでが本当で、どこまでがウソかがわからなくなってくる。「海外渡航」が偽装だとすれば、「投夷書」はもちろん「偽りの手紙」である。【注】ペリー暗殺が不可能になった段階で、「海外渡航」を願い出るが、これもまた苦し紛れのウソである。下田奉行所の黒川嘉兵衛に対しても、「海外渡航」が目的だったというウソの自供をおこない(ウソの自供を誘導され)、『回顧録』等においても、そのウソの自供に合わせたウソの回想を記さざるをえなかった。しかし、ことによると、「我洋虜を欺きて其の艦に入り、彼を刺して国に報せん」という、同志にたいする決意表明そのものが、実はウソだったという可能性もなくはない(少なくとも肥後の宮部鼎蔵は、そう捉えていたフシがある)。? 下田踏海事件というのは、実にわかりにくい事件であるが、この事件の主人公・吉田松陰という人物は、それ以上にわかりにくい。事件がネジレていたとすれば、吉田松陰という人物もまた、かなりネジくれた人物だったと言わざるをえない。しかし、こうしたネジレた事件、ネジくれた人物が、現実に、幕末維新の歴史を大きく左右したのであり、幕末維新の動向に大きな影響を与えたのである。すなわち、下田踏海事件、あるいは吉田松陰という人物は、幕末維新の「ネジレ」・「わかりにくさ」を象徴するような事件であり、人物なのである。【注】 松陰は、海岸で出会った三人の乗組員のひとり、スポールディングに「投夷書」を手渡すとき、彼の時計の鎖を物珍し気に触るフリをして、その胸ポケットに手紙を滑りこませたという(「ペリー日本遠征記」)。これも偽装といえば偽装である。
インターネットから「吉田松陰のペリー暗殺」に関するblogやホームページがあった。
吉田松陰はペリーを暗殺するためにポーハタン号に乗り込んだのか
吉田松陰がペリーの乗るボーハタン号に向かったのは何のためであったのか
暗殺者 吉田松陰
(了)

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