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武士道精神! 

2023年05月07日 ナビトモブログ記事
テーマ:お散歩

5日は明治神宮へ。
明治神宮は、東京都渋谷区にある神社。御祭神は明治天皇と昭憲皇太后で、明治天皇崩御後の1920年11月1日に創建された。
https://www.meijijingu.or.jp/midokoro/

境内のほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国からの献木が植樹された。
73ヘクタール(約22万坪)に及ぶ広大な神域は、江戸時代初めには肥後藩主・加藤家の別邸であり、寛永17年(1640年)より彦根藩主・井伊家の下屋敷となっていたもので、この土地が1874年(明治7年)、井伊家から明治政府に買い上げられて南豊島御料地となっていた。
https://youtu.be/gaySSoLoWZI

とにかく広い!本殿での参拝は長蛇の列でした。

次は乃木将軍が祭られている乃木神社へ
https://nogijinja.or.jp/history.html

日本の命運をかけた日露戦争で最も激しい戦いは中国の旅順。ここにロシア陸軍の強大な要塞が築かれ、日本の陸軍と死闘が。このときの日本軍司令官が乃木大将(希典)でした。日本軍は多くの戦死者を出しつつも(乃木の二人の息子も戦死)、ついに勝利をおさめます。
乃木は、ロシア軍の総指揮官ステッセルと会見。
アメリカ人記者が映画にとることを乃木に願い出たところ、「武士道の精神からいって、ステッセル将軍の恥が残るような写真はならない」として、断りました。
その後、再度外国の記者団が写真撮影の申し入れをすると、乃木はそれではと、ステッセル将軍たちに帯剣を許し、「われらが友人となって同列に並んだところを一枚だけ許そう」と答えた。
敗れた側の大将が、勝利者の大将の前で剣をさすことは、慣例として禁止。
これを聞いた外国の記者たちは、その寛大さと日本の武士道精神の美しさに息をのみ感動。
後に、アメリカの記者は、その感激をもとに『乃木大将と日本人』という伝記を書いた。
配信された諸外国でも圧倒的な尊敬を受ける。
特に長い間ロシアと国境を接して苦しめられてきたトルコやポーランドでは、乃木は英雄としてだけでなく、人格者として尊敬され、息子や孫に「ノギ」の名前がつけられ、トルコのイスタンブールには「ノギ通り」ができた。
ロシアに帰国しステッセル将軍は、日露戦争敗北の責任をとらされ、ロシア皇帝より銃殺刑を宣告される。これを聞いた乃木は、すぐにロシア皇帝に手紙を送り、処刑のとりやめを嘆願。
ロシア皇帝の心は動き、処刑は中止され、シベリア流刑に罪が減ぜられます。
残されたステッセルの妻や家族のために、乃木は自分が亡くなるまで生活費を送り続けた。
はるか彼方の外国に住む、しかも敵将の家族のために、お金を送り続ける。

明治45年7月30日に明治天皇が崩御せられて、御大葬の日と決まった大正元年9月13日。
御霊轜(棺を乗せた車)が宮城を出発する号砲が打たれた午後8時過ぎに、
御祭神、乃木希典と静子夫人は先帝に殉じて自刃を遂げられた。
御夫妻の忠誠心に感激した国民はこぞって乃木邸を訪れ、その数は日を追って増しています。
御祭神の葬儀と同時に幽霊坂と呼ばれていた坂の名前が“乃木坂”と改められた。
時の東京市市長・阪谷芳郎男爵は先頭に立って広く同志を集め、中央乃木会を組織し、乃木邸内の小社に御夫妻の御霊をお祀りした。
また、毎年9月13日にはその御前に祭儀を斎行するとともに青少年への研修会を開催するなど、御夫妻の精神を永世に伝えようという活動が活発に続けられていった。
大正8年には乃木神社創立の許可が下り、明治神宮創建の後に御造営の事業がおこされ、大正12年11月1日に鎮座祭が斎行。
https://youtu.be/9DEOPXP1FL8
御葬儀の当日、乃木夫妻の自宅から青山葬儀場までの沿道は推定20万人とも言われる膨大な数の一般国民で埋め尽くされた。その様子は「権威の命令なくして行われたる国民葬」「人民として空前の盛儀」と表現され、また外国人も多数参列したことから「世界葬」とも表現された。(ネット情報より)

今の日本には?武士道精神は遠くになりにけり!
騎士道精神も!
中世フランスを中心に発達した騎士道は、吟遊詩人などによりヨーロッパ中に広まったと言われる。 騎士の理想は、勇気、誠実、慈愛、礼儀などであり、女性に対する格別の配慮や、一朝ことあらば真先に戦場に駆けつけるという、ノブレスオブリージュ(高貴な者に伴う義務)も強調された。



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