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雑感日記

仙台時代の運転歴   私の運転歴    

2023年04月09日 外部ブログ記事
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★東北6県を担当した仙台時代は4年間ほどであったが、 その東北6県に主要代理店6店のほか小さな代理店を含めると10数店もあって、 そこを訪問すると同時に当時は2000店以上もあった各県の販売店にも訪問することが多かったので、 私の運転歴のうちこの4年間が走行距離では圧倒しているのである。 兎に角、東北は広い。仙台ー盛岡は200kmだし、その隣の青森がまた200kmなのである。 昭和42年(1967)からの4年間だが、4号線や13号線の主要道路は当時でも舗装道路だったが、 仙台−山形や、盛岡−秋田の峠道や各県での田舎の道はみんな砂利道と言う時代なのである。   当時でもイギリスの舗装率は90%を超えていると聞いて、 いつになったら日本はそうなるのか?  とホントにそんなこを思いながらの運転だった。 峠で舗装がされていたのは福島県の福島ー米沢と 郡山ー会津若松間だけで、 その他の山道はみんな砂利道だったのである。 ★確か、こんなトヨタパブリカのライトバンに、 当時はクルマの運転に凝ってた時代で、当然ミッション付きだが、 回転計を付けて、タイヤは当時福島オートが日本で初めて扱った、 ミシュランのラジアルタイヤを付けての走行で、 むしろカーブの多い峠道を走るのが楽しみだった時代なのである。 ラジアルタイヤなどはまだなかった時代なのだが、 このミシュランのラジアルタイヤはすごく高性能で、 雪道もスノータイヤを履かずに走れたのである。 確かに当時の日本のタイヤメーカーの技術はまだまだの時代で、 東北に行くまでのロードレースでは、みんな英国ダンロップなどの外国製を使っていて、 当時は二輪のロードレースに出場していたブリジストンも名前は消してあったが、海外メーカーのタイヤを履いていたのである。 当時の東北6県は日本で一番モトクロスレースが盛んで、 カワサキのファクトリーライダーだった、山本隆や星野一義がよくレースにやって来たのだが、 彼らも東北の峠道の走行を結構楽しんでいた時代なのである。 その時代は、峠道などは殆ど車は走っていなくて、蔵王のスカイラインなどはサーキットのような感じの道だったのである。 スローイン・ファーストアウト、アウトインアウト、ヒールアンドトウなどのレーステクニックを使った走行が楽しめたいい環境だったと言ってもいい。 ホントかと思われるかも知れぬが、峠越えの砂利道は、 冬雪が積もった方が、「雪の舗装」で夏場よりもスムースに走れるような感じもあったのである。★ 当時の白バイはメグロとW1などのカワサキが殆どで、 やっとホンダさんが350ccだったか、小さな白バイを入れ始めた頃で、 どの県でもカワサキは白バイ隊員と仲良くて、 山本隆クンが各県の白バイ隊員の運転指導なども行っていた時代で、 仮に違反などがあったとしても、よほどのことがない限り許してもらえる 「いい時代」だったのである。 お陰様でこの4年間、事故もなく違反もなくて、大いに東北6県での「クルマの運転」を楽しんだ時代なのである。 主要都市にある代理店を訪問するだけではなくて、 そのサブ店を訪問することも多くて東北6県の道は東北の方より詳しくなったと言っていい。 今と違って「メーカーの人」を一種独特の尊敬の念で迎えてくれるようなところがあって、 まだ30歳代の若手であった私も間違いなく「メーカーの人」と言うことで、代理店の社長さんは大いに利用されたのである。 そう言う意味では、まさに東北は「まだまだ田舎」だったのかも知れない。 そんなことで「長距離走行」には慣れてしまっていて、 盆や正月の休みには仙台から明石まで家族を乗せて車で往復したこともあったのである。 ★50万人フォロワーのいるツイッターです。?★雑感日記のEnglish Version です。★NPO ?The Good Times のホ―ムページです。 

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