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たかが一人、されど一人

普遍的価値感 

2021年12月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 昨日はブログをさぼってしまったので何となく朝から後ろめたい気分がする。そんな訳で朝一番にブログを書いているのでピントがずれるかもしれぬ。今週は個人的にも年末とあって、いろいろなことがあり、社会的にもいろいろな事件が報道されたので書きたいこと、書くべきことが多くテーマの選択に戸惑ってしまう。普段ブログがアップされる夕方までには更に重要な情報があるかもしれない。よって、今日は最近流行りの普遍的価値感について書いて早めにアップする。「一体普遍的価値何だろう?」予て疑問に思っていることだ。特に今のアメリカ政府や日本政府はこの言葉をやたらに強調する。しかし普遍的であればその価値観に反する国家群が世界の半分以上も存在すること自体おかしいではないか。アメリカや日本と価値観を共有できない国からすれば、お前たちこそ普遍的価値を持たない異端者と決めつけたくなるだろう。民主主義なんてものが本当に普遍的価値かどうか、未だに疑問を持つ理由だ。何処の国の法律にも一言も書かれていないと思うが、大学で受けた授業で、何の時間だったも記憶に定かではないが、ひょっとすると倫理学だったかもしれぬ。教授の名前も忘れていてノートも無いし教科書もとっくの昔に廃棄されているが、忘れがたい一言が記憶に焼き付いている。「絶対善」の三語だ。即ち「真善美」。教養ある人は無闇に絶対なんて言葉を気安く言ってはいけないとも教わったものだが、この先生は何度もこの言葉を強調したから、これは普遍的なことかもしれないと思っている。「真実」は誰でも認めるだろう。「善」は人によって受け止めが異なるかもしれない。「美」も同様だ。ここまで書いて思い出し始めたが、この言葉は倫理学でなくて数学か人間生態学の授業だったかもしれぬ。兎も角、数学は何処の国でもほぼ同じことを学んでいるだろう。アメリカ・バイデン大統領や日本の首相なんかの頭の中での損得計算式は普遍的数学とは少し違う計算をしているかもしれぬ。となると、やっぱり「絶対善」はありえない。80億人も存在する人類にはやっぱり異なる個人的善しか存在しない。それがそれぞれの美学というものだろう。実は一昨日2年ぶりで碁会所に行き友人と囲碁を楽しんだ。その場所で友人を待つ間に読んだ確か毎日新聞だと思うが、非常に興味深い記事があった。それは嘗て棋士でありながら日本棋院の理事長までになった大竹英雄氏の現役引退に関する記事だ。大竹氏はほぼ同年輩、現役引退にはたしかに少し若い。80歳近くになれば若い棋士との対戦では負けることもあるかもしれぬが、それで棋力が落ちたと言う人はいいないだろう。しかし氏は若い時から自身の対局にでも、碁石を打つ手順と出来上がった盤上の形の美しさにこだわり続けていた。氏は「最近は一目で展開する図柄が見えなくなった。」と語ったそうだ。最後まで「個人的美学」に拘った人だと感心した。

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