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たかが一人、されど一人

私、馬鹿よね 

2021年07月11日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

昨夜のリモート同期会で友人が面白いネタを呉れた。5人で政府の悪口を言い合っている時に、彼が兵庫県明石市長が「ワクチン供給不足…政府を信じた私が馬鹿でした。」と市民に謝ったとのこと。いやー、それは笑えるね。明日のブログのネタにさせて貰うよ。てな訳である。本当に今ほど市民の信頼が薄い政府は珍しいと思う。ただでさえ投票率の低い国政選挙の中で、投票数が5割以上行ったためしがないのだから、政府に信頼をおいてる人は10人のうち3人が精々だろう。高校同期の友人は、国政選挙の際に自民党に投票している人が多いと思うし、昨夜の友人も自民党支持者が多かったと思う。しかし彼等も野党に少しマシな候補者がいれば次回は投票先を考え直したいと思っている様子がありありだった。選挙の予想は専門家でも難しいから措くことにしたい。今日は馬鹿と利口の違いを考えてみたい。予めはっきりしておく必要があると思うので、自分のことについて言いたい。自分では馬鹿じゃないと思っている。しかし利口でないこともかなりはっきり意識している。ヤクザの世界には「馬鹿でなれず、利口でなれず、中途半端でなお(もっと)なれず。」と言われるらしいが、その中途半端の典型だと思っている。要は馬鹿と利口の差はどこにあるかだ。義務教育から高校時代は通信簿なるものがあって教科毎に評価され、上位評価の多い者から順に利口のランク付けをしてきたような気がする。この他に高校時代にはご丁寧に、期末、中間テストのたびごとに学年のランク上位50位くらいまでだったと思うがが職員室前に張り出されて、利口者の順番まであったと思う。流石に大学になると、単位を取得できるかどうかが問題で、成績を気にする人は余程良い就職先を目指す人に限られただろう。さて、社会人になると周りも自分自身も利口と馬鹿の差は余り意識しなくなる。他人との差別化は別次元となり、だいたい似た者同士がある種のクラスターを形成するので、そのクラスターの中での優位性の有無のほうが大きな関心事になってしまい、利口とか馬鹿は余り問題ならない。だからこそ、冒頭の明石市長の発言の意味するところはは大きいと感じた次第だ。この市長が自分を「馬鹿でした」と認めても支持者は減らないはず。利口ぶってる人間の方が嫌われやすいのは当たり前のこと。どうして権力者になるとああも利口ぶりたがるのだろう?一時利口ぶりっ子の権化だった北朝鮮の金正恩しでさえ最近は態度を改めているらしいのに。 

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