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平成の虚無僧一路の日記

尾瀬の国(藩)境争い 

2021年06月14日 外部ブログ記事
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蜂谷緑著『尾瀬ハイキング』の中で、「銀山平」のことが書かれている。「寛永18 (1641)年、銀鉱が発見され、越後高田藩と会津藩で、その領有権をめぐって、争いとなった。決着つかず、幕府に訴え出て、その結果、会津は外様、高田の松平氏は親藩ということもあってか、正保3年(1646)、只見川を国境として、銀山平は高田藩のものとなった」云々とある。これは変だ。会津藩は、徳川秀忠の妾腹の子 保科正之が藩主となって立藩された。23万石。親藩筆頭である。越後高田藩も、松平忠直の子「光長」を藩主とする26万石の親藩だった。光長の母は、秀忠と「お江」との娘「勝子」である。時の将軍 家光からみると、保科正之は弟、松平光長は甥になる。しかし、「正之」は 秀忠の隠し子で、「お江」に気遣って、信州高遠の保科家に養子となった。会津保科家が「松平」姓を許されるのは3代目からなので、この時は、まだ「保科姓」だから「外様」扱いだったというのだろうか。新解釈である。

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ウィキペディアで調べてみれば、最初、高田藩に届けられ、幕府の許可を得て採掘に踏み切った。その後に会津藩から横槍を入れたが、1646年「只見川を国境とするよう」裁決が降りた。その後 1681年、高田騒動で松平光長は改易され、銀山の採掘は中止となってしまった。そして 1689年(元禄2)には、只見川を隔てた会津藩領からも銀鉱が発見されたが、江戸幕府は両銀山を直轄経営としてしまった。つまり「トンビに油あげ」だったか。一時は、銀鉱で働く者2万余の盛況を極め、女郎屋もあったそうだが、今は、奥只見湖の湖底に沈んでいる。

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