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平成の虚無僧一路の日記

慶応中等部の地は、会津藩下屋敷だった。 

2021年06月14日 外部ブログ記事
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今週の運勢に「自分のルーツを知る時」とあった。「慶応中等部」のOB会報が来て、中等部の体育館を建て直すので、遺跡調査をしたら「会津藩下屋敷」の跡が出てきた との調査報告が載っていた。
そう、私が中等部に通っていた頃は全く気づいていなかったのだが、
三田綱町一帯は会津藩下屋敷だったのだ。私の先祖、牧原只右衛門直源は、系図に「御田屋敷で生まれる」と書かれている。
名古屋に来てから。近くに「御田(みた) 中学」があるので、「御田」は「三田」と読むと気づいたのだ。私が通った慶応中等部は、先祖の縁(ゆかり)の地だったのだ。
慶応に入れたのもご先祖様のご縁か。


保科正之の正室は藤木氏の娘「お万」。その子「正経」が二代藩主となったが、病弱で子供がなかった。そこで「正経」の後、三代目は、正之の側室が生んだ「正容」が継いだ。私の先祖 牧原只右衛門は、13歳の時、保科正之の6男「正容」の小姓となった。その「正容公」が たまたま 藩主になったため、側用人として、500石取りにまで出世する。サラリーマン社会も同じだ。自分の仕えていた上司が社長にまで出世すれば、取り立ててもらえるが、上司が失脚すれば一蓮托生。すべて運、不運。いや運を呼び込む能力も必要か。実は、大学4年の就職活動で、求人案内を見て、たまたま家の近くなので寄ったのが千代田生命。その場で一次試験。二次試験と通り、役員面接の時びっくりしたことが。副社長が萱野章次郎氏だった。その萱野副社長から「僕君のこと知っているよ」とお声をかけていただき、びっくり仰天。萱野章次郎氏は、明治2年戊辰戦争の責を一身に追って死罪となった萱野権兵衛長修の子孫、戦後最高裁判所長官となった三淵忠彦の次男で萱野家を再興した方。会津人にとっては殿様の次に大切な方。これも奇遇。萱野氏のおかげで、私は千代田生命に入社できた。その後萱野氏は千代田生命の社長になられ、私は30代までは異例の出世。ところが、萱野氏が癌で亡くなられると、私は和歌山支社に飛ばされ、人生の転落が始まった。

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