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平成の虚無僧一路の日記

牧原文吾 (松井九郎) の事跡発見 

2021年06月10日 外部ブログ記事
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元桑名臣・倉田巳(巴)、岡(国)枝太郎 米田隊下となりて、桑名の臣二百を以て秋月と共に脱走す※。
會藩・工藤衛守、松井九郎、米田隊下となる。秋月は第一大隊を卒し鴻の台に勢を揃え規則を調え、野州三つ街道(水海道)に走る時、土方歳三は後れて止むを得ず会津に走り、秋月に逢うて共に誓いて下館に向う。倉田巴は立見鑑三郎、国枝太郎は馬場三九郎の変名。桑名隊は200名ではなく80名。いずれも脱藩したという。会津藩の工藤衛守(内田衛守)と・井上誠之進(米澤昌平)、松井九郎(牧原文吾)いずれも脱藩して改名。内田と牧原は別伝習隊の長となる。別伝習隊は「農兵」隊とされるが、元西丸下の歩兵からなる部隊であった。
慶応4年1月3日火ぶたを切った鳥羽伏見で敗れ、徳川慶喜、松平容保、松平定敬が大坂城を脱出した後を追って、みなほうほうの体で江戸を目指す。
八日 早朝より舟を求むるに一艘もなし。力を尽し小舟十艘計りを得手負を載せ中嶋会所へ送り、残りの部は漸く人足を得て同所へ送る。此時砲兵隊長林権助(戦死)隊の巨海源八郎、牧原源蔵、梁瀬武四郎、元白井隊より三浦重郎、両角千代治、杉浦八太郎介抱方の命を蒙る。巨海、牧原等小野内膳より金策し、漸く五六艘を得て天保山に至り蒸気船に移る。
一統は東本願寺に会す。此時土藩の使者来て引取ることを止め、且実情を云て其応対甚だ慇懃なりし。既に四つ半頃出起惣殿して堺に至りて宿す。
?
という。さて、蒸気船に乗ってどこまで行ったのか、東本願寺とはどこの寺か? 江戸へ直行したのではなく堺に着いて一泊したと?

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