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祝詞山八幡神社・福成寺 

2011年09月06日 外部ブログ記事
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祝詞山八幡神社


エメラルドグリーンの海を横目に風早へ


貞観三年(861)に勧請され、創建されたと伝わる由緒のある神社です
万葉集ゆかりの地であることに因んだ歌碑と陶壁もあります

看板




天平8年(736)阿部継麻呂を大使として派遣された遣新羅使の一人が、
風早の浦で詠んだ歌(万葉集)の歌碑と陶壁が立っています。

わが故に 妹嘆くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり(巻15-3615)

沖つ風 いたく吹きせば 我妹子が 嘆きの霧に 飽かましものを(巻15-3616)

風早の沖に霧がたちこめているのを見て、嘆き悲しんでいる妻を思って詠んだ歌2首です。



拝殿
何か行事があるらしく拝殿内は人で一杯でした。
拝礼しましたが、なんだか受付をしていた若い女性を拝んだ感じになりました。


境内社



本殿

丸柱が使われています。


拝殿の瓦には小早川の巴紋が付けられています。


拝殿前階段からの展望。


風早から山中を走り西条へ出ました。


福成寺
広島大学東広島天文台の下、標高約500mの山頂近くに建つ奈良時代の開基と伝えられる寺院です


山門
山門に掲げてある「福成寺」の扁額は、空海上人が諸国巡錫の際書かれた真筆


中の仁王が変というか雑というか
仁王像は実相房僧都宗真作と伝えられています。



いわれ


福成寺の開基

 寺の縁起文によると、聖武天皇の時代(奈良時代)にある猟師(後の網衣上人)が
山で千手観音を発見し、それが縁で出家して福成寺の前身である福納寺を建立したのが
始まりである、と伝わっています。 

 平安時代の初め、諸国巡錫の途次福納寺に立ち寄られた弘法大師が
「是れより北に山あり佳き堂地なり、彼の地に寺を移すべし」
と仰せられたことから、寛仁年間に現在地へと移転しました。

 その後、西条一族の氏寺となり崇敬を集めていましたが、
源平の戦禍に見舞われ伽藍を消失。  
灰塵に帰した寺の再興を授けたのが、平氏に追われて西条の庄に落ち延び、
やがて二神山に城を構えた源頼政の側室・菖蒲の前と伝えられています。 

 この頃相次いで建立された諸堂宇は元亨年間に再び火災に遭い全焼したものの、
時の天皇の庇護を受けて復興を果たし、室町時代には安芸国に進出して一帯を支配した
守護大名大内氏の宗教的拠点となって栄えました。

 大内氏滅亡後も毛利輝元公らの帰依を得た当寺は、この中世期に
31宇の諸堂と42坊、北山12坊を数えるほど隆盛を極めたといわれます。 

 しかし、江戸時代に入ると寺領は悉く没収され、寺運は次第に衰退。

 さらに明治の廃仏毀釈の法難に遭い、一時は著しく荒廃していましたが、
檀信徒や地元の方々の浄財による大正時代初期の大修理で本堂が蘇り、
今日までその法灯を絶やすことなく守り続けています。
                 福成寺ホームページより
                   
屋根付き橋がありなかなかの風情
RC造(鉄筋コンクリート)なのが残念。


本堂


本堂裏の六所権現の階段を登ってみる。


六所権現?これ??


何だか山が手入れされているので
さらに山を登ってみました。


ちょっと城跡みたいでしたが何もありませんでした。


夫婦杉 樹高約40M これは見事です。


4月から5月初めには約60種類・1,400本ものしゃくなげが咲きそろいます。

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