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たかが一人、されど一人

読後感「明治一四年の政変」久保田哲著 

2021年03月01日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

 いきなり余談ではあるが、両親が明治時代生まれなので、明治時代のことは歴史上の問題ではすまされない。生まれた1940年からすれば明治維新は僅か72年前の出来事。だから両親を始めとする先輩の話をちゃんと聞いて理解を深めておかないと一人前の大人として世間に通用しない筈だ。祖父母から聞いた江戸時代のことは多少いいかげんになっても仕方ない。と言った思いがある。この伝でいけば、子や孫たちにとっての明治時代は既に歴史の時代。小生が安政の大獄と聞いても意味がはっきり分からないように。子どもたちが明治14年の政変と聞いても、深く知る必要は無いかもしれぬ。徳川幕府が倒れて明治政府が樹立したのは慶応4年(1868年)と知る人は多い。小生は慶應義塾の出身で、入学した昭和34年が(1959年)が創立100周年にあたっていたことを思い出す。改めてネットで確認すると「慶應義塾は1858年、福澤諭吉が江戸に開いた蘭学塾から始まりました。」とあるから、なんだ創立は嘉永か安政時代じゃないか、なんで慶応なんだろう?と不思議に思った次第。兎も角、本書で明治時代のはじめ頃については全く認識が間違っていたことに気付かされた。先ず、慶應義塾の創始者福沢諭吉や早稲田の創始者大隈重信は、単なる教育者と思い込んでいたのが最大の間違い。二人共ある意味では政治家で、国家国体をどのように形成していくかについて、相当コミットしていた。その一手段として、未来の担い手育成のために、学校を設立した目的があり、これも二人の共通点である。事実二人は国会開設やあるべき政治体制でも意見が一致していて、福澤は大隈が設立した政治団体立憲改進党にも協力していたようだ。橋が前後してしまったが、明治14年の政変とはこれまで日本の近世史の中で余り話題になっていなかったように思う。しかしここは非常に重要な節目で、西郷隆盛下野に繋がった明治6年の政変とともに、日本が近代国家に生まれ変わる道程でどうしても抑えなくてはならない。維新以来廃藩置県とか政治的事件は数多いが、やはり最大のポイントは憲法の制定と国会の開設にあるだろう。この道筋がはっきりしたのが明治14年とのこと。この道筋については様々な人が時の政府或いは天皇側近へと、意見を上げていた。本書では、明治13年頃から15年頃までに掛けて、重要人物たちがいかなる動きをしていたかを詳しく解説している。結局は伊藤博文の思惑通りとなり、大隈や福沢の思惑は外れてしまう。その結果と言う程単純ではないが、大隈も学校を設立して国会が開設された将来に向け人材の育成を図ることに繋がっていく。この二人は既に新聞を発行して民衆に訴えることは行っていた。しかし国家は形だけ作っても国民がついてこないのでは何にもならない。更に、伊藤博文の政権側は自由民権寄り思想の二人を経過して、金融的な締め付けや、投獄まで考えていた証拠が残されているので穏やかでない。結局は教育者として名を残した二人だが、実際に大変な苦労があったことを初めて知った。

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