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平成の虚無僧一路の日記

母方「山室」家のルーツ A 

2021年02月13日 外部ブログ記事
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「母方の山室家は、信州高遠の出、高遠には山室川という川もある」と、子供の頃から聞かされていました。

一昨年、高遠から山室川の上流まで、虚無僧で行ってきました。途中に 町営の山室温(鉱)泉というのもありました。
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「山室」という地名は、町村合併で消えてしまったようです。高遠には「山室」姓の家は一軒もなく、「山室川」の由来についても訪ね歩きましたが、知っている人はいませんでした。会津藩家老の「北原」家は、高遠の出で、「北原」姓は高遠にも多くいるとのこと。「北原」家は、会津藩の家老として重用されたのに、山室はなぜ、100石止まりだったのか。しかも山室は、郭外の「新横町」に住まわされていました。
なぜ「新横丁」と「新」がつくのか疑問に思っていました。高遠にも「横町」という町名が有ったのです。このことは、会津との関連を感じさせます。さて、こんな疑問が解けたのは、父の墓参りがきっかけでした。父の墓は、千葉県・房総半島の「長南町」にありました。今は墓じまいして成田の方に移しました。

長南町の町営墓地なので「安いから」と、母が買い求めたのですが、なんと「長南町」は、保科正光の正室「長南御前のご料(領)所」だったというのです。なぜここに、「高遠の保科氏の正室が?」と意外な事実にびっくり。そして調べるうちに、成田空港の南に「山室城」があり、戦国時代まで この地を支配していたのは山室氏で、保科によって攻め滅ぼされたことが判ったのです。それは、小田原北条氏が秀吉によって滅ぼされ、徳川家康が関東に入封した時。高遠の保科氏も随行し、千葉下総の「山室城」攻めを命じられたのです。そして、保科氏は、山室氏を滅ぼした後、10年、この辺りを支配していたのでした。そして関が原の後、保科氏は旧領の高遠に帰ることとなります。徳川家康は、武田や北条、佐竹を攻め滅ぼしながらも、その遺臣たちを懐柔して雇用しています。ですから、山室氏も保科の家臣となり、高遠に移り住んだと考えられます。保科の家臣となっても、元は「敵」だから、山室氏が高遠で厚遇されるはずはななかったのでしょう。しかし、山室氏は築城や開墾の技術に長けており、城からさらに上流の一帯を治水開墾したのではなかろうか。それで、新田開墾した地区が「山室」と呼ばれたと、推理してみました。下総の山室には、円墳としては千葉県最大の「山室姫塚古墳」があります。付近一帯は、17基の円墳、横穴石室などたくさんの古墳があり、「山室」とはこれら古墳に由来した姓と思われます。

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しかし、信州高遠の山室には、それをイメージするものは見られませんでした。つまり、高遠の山室一帯は千葉の「山室」氏が治水開墾した土地ではないか、と勝手に想像しています。一応、山室城跡というのがありましたが、城というよりは館跡のようです。山室神社もありましたが、その由来は不明でした。

山室城跡 城主、経歴不明

山室神社 

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